次女はお産が大変で、産前産後1年あまりを上の子も婿も一緒に、我が家に転がり込んで来た。95歳の母から、生まれたての赤子まで四世代同居の日々はてんやわんやであったが、活気もあった。身体はまいりましたと悲鳴をあげていたが、過ぎてしまえば楽しい時間であった。
四世代容(い)れれば入(はひ)る破れさうで破れない古い巾着わたし 小島ゆかり『六六魚』
「古い巾着」まさにそんな感じ。若い母親のような漲る気力体力はなく、かと言って戦線離脱して「可愛いねえ」と見ているだけの曾祖母とも違い、小島ゆかりが詠うように「祖母といふものは巾着に似る」のである。
われはもや初孫得たり人みなにありがちなれど初孫得たり 小島ゆかり『六六魚』
孫の歌は甘くなるからと詠むのを躊躇ったり、孫という言葉は使わずに表現しなくてはと思ったりしたが、この歌を読んで多いに力を得た。藤原鎌足が安見児を娶った時に詠んだ万葉集の一首を本歌取りにして、初孫を得た喜びを全身ならず、歌一首まるごとで表現した感じ。歌うならとことん歌う。中途半端がいけないのだ。
生まれ来て数時間なるこの赤子たたかひすんであくびしてゐる 池田はるみ『南無 晩ごはん』
見よ見よと手足動かす三千グラム言はれなくともわれらは見るを 伊藤一彦『微笑の空』
抱きたるみどり子の頭重きこと子のとき覚えず孫にして知る 大下一真『漆桶』
九十の母もふにゅふにゅのみどりごを覗き込みてはふにゅふにゅ笑う 中川佐和子『夏の天球儀』
出産と言う場面で、親と祖父母との違いがよく分かる作品である。一首目「たたかひすんであくびしてゐる」と眺められるのは祖母ならでは。自分が出産したときは産後数時間では、それどころではなかったであろう。二首目、「三千グラム」で赤子のことと分かり、目を細めて見守っている情景が浮かぶ。三首目、「子のとき覚えず孫にして知る」とはっきり述べているように、当事者はそんな余裕はなく、孫を抱くにいたってゆったりと受け止められるのである。四首目は、曾祖母と赤子の対面。九十歳年の離れた者どうしの「ふにゅふにゅ」が何とも微笑ましい。そして祖母である作者の笑顔も見えてくる。
今は寿命が延びて四世代同居も見られるようになり、曾孫を詠んだ歌もある。
長生きの祖母(ばあば)と遊ぶ曾(ひ)の孫の小さくぬくき掌をつなぎたり 宮英子『青銀色』
乳(ち)ぜりなくこゑに目覚めつ現目(うつつめ)にわれの子の子の子の口を洩る 春日真木子『生れ生れ』
一首目、「ばあば」「曾の孫」「小さくぬくき掌」に命のあたたかさが感じられ、結句の「つなぎたり」には、子、孫、曾孫とうけつがれてゆく時の流れを思う。二首目、「われの子の子の子の」と言う「子」の繰り返しが巧みである。孫の歌も曾孫の歌も味わい深くて良いなあと思う。
おばあちやまはほどけてゐるといはれたり まことほどけてこの子と遊べる 五島美代子『時差』
五島美代子のように、しばらくは私も、思い切りほどけて孫と遊ぶのも良いかも知れない。きっと、あっという間に育ってしまうのだろうから。
プロフィール
松尾祥子(まつお・しょうこ)
1959年東京都生まれ。「コスモス」選者。歌集『風の馬』『茜のランプ』『シュプール』『月と海』『楕円軌道』