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会員エッセイ

2023/08/01 (火)

【第23回】 瞼を閉じて   小見山泉

 いまから10年前(平成25年)、岡山に住む歌人・溝渕嘉雄さんの第2歌集をつくるお手伝いをさせてもらった。
 歌集は『海に沿ふ道―隔絶の島に病みて』という。溝渕嘉雄さんは昭和3年に生まれ、昭和18年、15歳からの長い年月を岡山県瀬戸内市の虫明沖にある国立ハンセン病療養所・長島愛正園に過ごした。昭和40年頃短歌を作るようになり、平成元年から毎日新聞岡山歌壇に投稿。第1歌集『南天の実』の上梓が平成15年、ちょうどその年から10年間を神信子(筆者の母)が、神信子死去後は大森智子さんが選者を務め、何度も特選や入選に選ばれた。
 地方欄の小さな歌壇だが、溝渕さんの作品は瀬戸内海の波光のようにひかっていた。選者となって間のない大森智子さんが感銘を受け、歌集にまとめることを勧めた。愛正園の、かつて「十坪住宅」と呼ばれた住まいに溝渕さんを訪ねると、「神先生が亡くなってから歌が出てこない」といいつつも「これが最後になると思うので、良い歌集にしてください」といわれた。

  麻痺の掌に春の光をうけとめてその掌をしばらくあそばせてをり
  友逝きて空きたる部屋の奥深く秋の日は差す昨日も今日も
  夢を見る視力が欲しいと思ふ夜は瞼を閉ぢて長く眠らむ

 歌集には、約350首の溝渕さんの作品に、大森智子さんの序[歌集出版にあたって]、新聞歌壇を通じて知り合った藤井礼三郎さん(故人)のお孫さん・小坂田摩由さんの「訪問記」、筆者の解説、溝口嘉雄さんの口述筆記による「あとがき」、岡山在住の画家・堀越克哉さんが描き下ろした虫明の海の絵も添えられた。歌以外のことばが多くなったが、はからずも岡山に住むことになり、歌によって様々なご縁ができ、晩年の歌集がなったことがわかる一冊となった。

 それから8年が過ぎ、令和3年8月6日に溝渕さんは亡くなった。93歳だった。ただひとり、親族として島に溝渕さんを見舞った兄上は、自身の家族に溝渕さんのことを知らせることもなかった。遺品の受取人もいないのではないだろうか。愛正園に連絡すると、未開封の歌集があるが、片付けが終わったら処分するという。管理部の方にお願いして、遺された歌集を送ってもらった。十数冊を身近な歌友に贈ったが、メディアや岡山県下の図書館には出版時に寄贈していたため、あとをどうするか決められず、段ボールに積まれたまま月日が過ぎていった――

 私ごとだが、数年来、邦楽楽器を習っている。稽古は1対1なので他のお弟子さんと顔を合わせることは少ないが、今年5月、お稽古の仕舞い際に次の方が見えた。師が「おふたりは初めてですか。こちらは教育委員会にお勤めの…」といわれる。ご挨拶もそこそこに「じつは寄附したい歌集があるのですが、ご相談できますか」と聞いた。小鼓の革鞄を提げた背広の紳士は突然の申し出にもかかわらず、快く担当者の名前と電話番号を教えてくださった。後日、電話をすると「お聞きしています」と、とんとん拍子で話が進み、84冊を寄贈、委員会から市内の全中学校と総合支援学校に届けていただいた。
 部屋の隅で眠っていた溝渕嘉雄さんの歌集が、学校の図書館に置かれ、若い人に読んでもらえる。故郷にも帰れず、偽名のまま納骨されていったハンセン病の元患者さん達、国の誤った政策で一生を棒に振らざるを得なかった人々のことを知ってもらいたい。そして、彼ら彼女らの心の支えとなった短歌という文学のことを知ってもらいたい。関心を持った人達に歌を作ってもらえるかもしれない。
 暗い世界に一点の光明を見る思いがした。地方都市に配られた百冊に満たない歌集である。SNSでバズった発言には全く及ばないが、ちいさなご縁によって熾され、渡されたあかりである。この歌集に触れた人のこころの中に、瞼の裏に、ともり続けることを願っている。


【プロフィール】
小見山泉(こみやま・いずみ)
1961年生まれ。岡山県出身、京都市在住。龍短歌会所属。歌集に『みづのを』がある。

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