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会員エッセイ

2023/05/01 (月)

【第20回】 一首のもつ時間   山下翔

 連作や歌集一冊ではなく、一首のなかに時間のこもっているうた、一首をはみ出して時間の流れているうたを読むと、ああいいなあ、と思う。

かたち良き富士をふたりで見ていたり松の林を鳶が越えゆく
松村正直『紫のひと』

 歌集では母と「ふたりで」遠く富士山を眺めている。富士山を言って「かたち良き」とはほとんど何も言っていないのだが、それがこの一首の、ただおだやかに過ぎていくふたりの時間を表しているようにも思える。見て「いたり」であるから、そういう時間がしばらくの間つづいて、そのさきに、「松の林を鳶が越えゆく」という光景が広がる。

 ふたり遠く眼差しをおくるそのさきに、またその視線のように、松の林を越えて鳶が向こうのほうへ飛んでゆく。しずかに風が吹いて、ふたりはただ風景に溶け込む。そんなひとときを思う。母とわたしをめぐるあれこれは、このひとときばかりは川床にしずみ、すみとおった川面のような時だけが、ただただ流れてすぎてゆくのである。

路に触れ消えゆく雪と見ていしが白き厚みをもちはじめたり
吉川宏志『雪の偶然』

 夜のバスで親元を離れてゆく息子を、父として見送るシーンである。降りはじめたばかりの雪が、路に触れてたちまち消えてゆく、そんなふうに見えていたのが、だんだんと積もるような雪になってきた。「見ていしが」の「し」がそこに過ぎた時間を示しながら、「もちはじめたり」には、ここからさらに続いていく時間への予感が映る。

 発っていった息子と、ここに残るわたしとの隔たりのように、雪が降り積もっていく。触れては消(け)ゆく雪はこの別れの場面をあくまで日常のひとつの風景に留めながら、バスが出発し、窓が過ぎゆき、その尾灯が遠ざかりゆくのをぼんやりと見やるころには、はっきりとこの場面を劇的なものにしている。

会うたびに「先生、ねむたい」という生徒の眠気をもらって戻る教室
川上まなみ『日々に木々ときどき風が吹いてきて』

 学校の先生である。「先生、ねむたい」が口癖のようになっている生徒。教室に戻る途中であるから、廊下のようなところを想像する。わざわざやってきて話すのではない、すれ違いのときの、こまかな時間である。じっさいねむたいのだろうが、このことばは、どこかきっかけのようにふたりを取り結ぶ。「会うたびに」であるから昨日今日のことではない。積み重なった厚い時間がここにはある。

 たとえばもらい泣き、ということばがあって、だからこの「眠気をもらって」というのは、そんなたぐいのよくある現象に過ぎないのかもしれない。しかし初句で「会うたびに」と読んだわたしは、どうしてもここに或る親密さを感じてしまう。「先生、ねむたい」と発するときのささやかな、しかし精一杯のこころが、やがて先生の「眠気」を形づくってゆく。

 一首のもつ時間を読みながら、わたしがしんじつ惹かれていたのはそこに描かれた関係だったのかもしれない。黙っていてもそれがしぜんな空間や、降り積もる隔たりくらいでは壊れない厚みや、心も身体もとかしあうようなひらかれたあり方を、どこか遠いことのように望んでいるのである。一首にたちあらわれる光景は、時間は、そんなこころが見せる幻のように、いつまでも胸にひろがっている。


【プロフィール】
山下翔(やました・しょう)
1990年長崎県生まれ。「やまなみ」所属。歌集に『温泉』『meal』。

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