アクセス個人情報保護方針

〒170-0003 東京都豊島区駒込1-35-4-502
TEL:03-3942-1287 FAX:03-3942-1289
(平日10時〜16時)
 
会員エッセイ

2022/12/01 (木)

【第15回】 西行と定家から芭蕉へ  江田浩司

 歌人の間には、西行の芭蕉への影響は広く知られているが、定家の影響が語られることは皆無に近い。例えば、玉城徹は、西行と芭蕉の親和性を語ることはあっても、定家と芭蕉については、むしろ対蹠的に捉えている。芭蕉の俳諧に造詣の深い玉城が、このような認識を持っているのは、定家嫌いの玉城の恣意的な理解と言わざるを得ないだろうが、そこに示されている芭蕉像は、玉城という歌人を理解する上で、重要な事項の一つである。
 実際の芭蕉は、西行と定家を同様に尊重していた。その点が、一般的に伝わっていないのは、生前に芭蕉が、定家の多くを語っていないことにもよる。
 次に芭蕉が、西行と定家の二人に触れた書簡の部分を引用してみたい。

唯(ただ)李(り)・杜(と)・定家・西行等の御作等、御手本と御意得(おんこころえ)可被成(ならるべく)候(そうろう)。 (貞享二年半残宛書簡)

 貞享二年は、芭蕉が四二歳のときである。李白、杜甫、定家、西行の作品をお手本にするように、弟子の半銭に書簡で説いている。この四人を並べたことには、とても深い意味がある。芭蕉がこの四人の詩歌人から受けた影響は、語法や詩心、生き方など多岐に亘る。
 「水とりや氷(こほり)の僧の沓(くつ)の音」この頃に、芭蕉が作った句である。「氷の僧」の譬喩表現?が印象的であるが、全神経が聴覚に集中している様子が鮮やかに浮かび上がってくる。「氷の僧」に、私は漢詩の影響を見たいのだが、果たしてどうだろうか。
 次の書簡も西行と定家が並列されている。

又、志をつとめ情をなぐさめ、あながちに他の是非をとらず、これより実(まこと)之道ニも入(いる)るべき器なりなど、はるかに定家の骨(こつ)をさぐり、西行の筋(すぢ)をたどり、楽天が腸(はらわた)をあらひ、杜子が方寸ニ入(いる)るやから、わづかに都鄙かぞへて十ヲの指ふさず。 (元禄五年曲水宛書簡)

 この書簡では、定家、西行、白楽天、杜甫の四人が並び称される。芭蕉が四九歳のときの書簡である。
書簡の「定家の骨」とは、定家の句法のこと。芭蕉は、定家の疏句体から学ぶところが多かった。疏句体は、「初句から結句までの関連において、それぞれどの句も音韻上からも語法上からも切れているが、気分的・情趣的に深くつながっている」(『和歌文学辞典』)歌の構成である。
 研究者の伊藤博之は、芭蕉の定家継承について、次のように記している。「上句と下句とを相互規定的にかかわらせる疏句体の構成に新しい表現可能性を学びとったことが、芭蕉の定家継承の本質であったと考える」(『総合芭蕉事典』)。
 芭蕉は、弟子の曲水に、定家の歌の句法の精髄を探究し、西行の詩心を深く考え、白楽天の精神を見極め、杜甫の心を自分のものにしている俳人は、十人とはいない、と書いている。この書簡は、当代で俳諧を極めることが困難であることを示しているものだが、自己が目指す俳諧の真意を示しているともいえるだろう。
 芭蕉は、初学の一時期に北村季吟に師事しており、和歌への素養と関心は、その頃に培われたと考えられる。芭蕉の俳諧には、「万葉集」を初め、多くの歌集を典拠とする作品が少なくない。中でも、「古今集」、「新古今集」、「山家集」の影響が顕著であり、最も親炙したのが「山家集」である。
 また、現在、芭蕉作の和歌とされる作品に、次の二首がある。

  宵々は釜たぎるらん寝所の三つの枕も恋ひしかりけり    「推定元禄三年九月末書簡」
  逃れ住む美濃のお山の哀れさを松の嵐に吹きも伝へよ  「追善集『後の旅』元禄九年刊」

 一首目は、凡兆の妻、羽紅への書簡に記された歌。芭蕉が、この年の夏、凡兆宅に泊まったときのことを懐かしく思って詠っている。三人枕を並べて親しく寝たのである。この頃、「猿蓑」編纂に向けて、芭蕉と凡兆は親密な交流をしていた。
 二首目は、大垣逗留中の歌と弟子の如(じょ)行(こう)が伝える和歌。芭蕉の最晩年の境地がこの歌には反映されているようで、とても感慨深い。
 現在確認されているこれらの歌は、どちらも古風な詠い方だが、芭蕉の俳諧創作の基底に、和歌の世界が自然に根付いていることが推認されるだろう。
 芭蕉は、定家の父、俊成(釈阿)の歌の言葉にも強く心を惹かれている。「たゞ、釈阿・西行のことばのみ、かりそめに言ひちらされしあだなるたはぶれごとも、あはれなる所多し」(「許六別離の詞」(柴門の辞)より)。芭蕉が、西行、定家、俊成について語る先に、俳諧によって「風雅の誠」を突きつめるとともに、「不易流行」への強い思いがある。
 伊藤博之の論文「西行と芭蕉」の掉尾近くに、次の考察がある。

 そもそも、日本語による韻律は、二音節単位の語形を生かした反覆リズムを基本とし、それに一音節語をはさむことで声調に微妙な変化を与え、五音句もしくは七音句に枠どることが最善の方法とされていた。このうるわしく整えられた声調の直接的なひびきが、詩語のイメージ喚起力を豊かならしめていたのであるが、中世の歌人定家(一一六二−一二四一)は、歌のリズムの流れを句切れ表現によって、断ち切り、線状によみ下す読み方を意図的にこわすことによって、イメージの重層化をはかる表現様式を確立した。
 芭蕉は、西行の歌から詩心のありかを、定家の歌からことばにつきまとう慣習化したコンテキストを断ち切る表現法を学びとることによって、近代の俳人大須賀乙字(一八八一−一九二〇)が「二句一章」の方法と呼んだ俳句表現の基本形をさぐりあてたのであった。

 芭蕉が定家から受けた影響は、現代歌人にとっても思考すべき重要な問題を胚胎している。それは、定家から芭蕉に継承され更新された語法を、現代短歌に活かす意味においてである。この点は、短歌の語句の調べと深く関わっている。そのことに最も敏感に反応した歌人が玉城徹だが、その玉城が定家嫌いであったことは、芭蕉と玉城の詩人として本質の違いを示しているだろう。
 最後に、定家の歌と芭蕉の句を並べて示したい。私はこの二つの作品の間に、語法と象徴世界の親和性を感受している。

  をちこちにながめやかはすうかひ舟やみを光のかがり火のかげ      藤原定家
 
  冬の日や馬上に氷る影法師       松尾芭蕉



プロフィール
江田浩司(えだ・こうじ)
1959年生まれ。「未来」編集委員。『メランコリック・エンブリオ 憂鬱なる胎児』(第41回 現代歌人協会賞候補)、『岡井隆考』(第9回 鮎川信夫賞候補)その他。最新刊『前衛短歌論新攷 言葉のリアリティーを求めて』。

トップページ現代歌人協会について声明書籍販売リンク集お問い合わせコンプライアンスアクセス

Copyright © 2021 KAJIN-KYOKAI . All rights reserved.