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会員エッセイ

2022/11/01 (火)

【第14回】 ハンモックが似合わない   桜川冴子

「さくらがわさーん」
と、後ろからMさんが声をかけてきた。Mさんとは、短歌の仕事を通じて、少し前に知り合った書家である。
「大島に別荘があるんですけど、バーベキューしに来ませんか」
「大島ってどこの?」
「宗像。ぼくは大島の生まれなんで。長渕剛の別荘もあって、ウチの方が大きいかな」
だんだん私はMさんが神々しく見えてきた。
「エーッ、あの宗像大社の大島!長渕剛!」
「若い歌人の人たちを連れて泊まりに来てくださいね」
「若い人ねえ」
ということで、2018年の夏、私は4人の若い人を誘って島へ渡った。行き先は、神の島である。大島には宗像大社中津宮があり、宗像三女神の次女神の湍津姫神(たぎつひめのかみ)が祀られている。この島には沖ノ島にある宗像三女神の長女神の田心姫神(たごりひめのかみ)が祀られている沖津宮を拝するための遙拝所などもある。敏感な私にとって、神域にどなたとご一緒するかは大事である。どなたを誘うのがいいだろう。大げさな言い方をすれば、エネルギーの強い土地では、増力も滅亡も招く。考えたあげくのことであったが、そうと知られないようにさりげなく人を誘い、大人の遠足のように出かけたのだった。
 大島を案内してもらい、バーベキューではなくどこかの宿で美味しい魚づくしの食事をすませて、Mさんの別荘に到着した。Mさんはご自分の家は別の所にあって、別荘の管理を任せられているのだと言った。久しぶりなのだろう、リビングの床はざらざらで指に砂ぼこりがついた。若い歌人たちは自動販売機に飲み物を買いに行くと言い、Mさんの車で出かけた。私はそれどころではない。
 知り合いの音楽家が「海外に演奏旅行に行くと、ピアニストはどんなホテルに泊まるかが大事で、声楽家の人たちはそんなことより、何を食べるかということを気にするのだ」と言っていたことを思い出す。私はピアニストでも声楽家でもないが、タイプとしては前者である。一日ぐらい食べなくても平気で、寝る環境や清潔感を最優先にする。枕をもって移動することもある。
 大島の別荘は埃だらけであった。このまま雑魚寝なんて私はできない。バッグから取り出したタオルの1枚を雑巾にして、黙々と拭き掃除をはじめた。何度も何度も床を拭いてやっときれいになった頃、ざわざわと若い歌人たちはMさんと戻ってきた。海に行ってきたらしい。それから、連歌のようなことをしたり、Mさんの書を眺めたりした。さすがに、文字の線が美しかった。部屋には存在感のある椅子形のハンモックがあった。誰からともなく、座りはじめた。誰かが降りると、また誰かがふうーっと座る。台風が島を通過する前夜のことで、風がときおり強く窓に吹きつけている。代わるがわるシャワーを浴びて、部屋に戻る。いつも誰かがハンモックからぶらんと足を垂らしている。若い歌人のひとりひとりは、ハンモックで孤独を飼っているように感じた。或いはまた、ハンモックの上に巨大な卵があって、殻を突き破って顔を出しているようにも見えた。この人たちはこれから出るんだなと思った。若い歌人にはハンモックが似合う。私もハンモックに腰かけてみた。我ながらハンモックが似合わないと思った。
 村上春樹の『風の歌に聴け』に、ひどく無口な少年が出てくるシーンがある。両親は心配して、少年を知り合いの精神科医の家に連れて行く。二人きりになって医者は僕に次のように話をする。

「昔ね、あるところにとても人の良い山羊がいたんだ。」
 素敵な出だしだった。僕は目を閉じて人の良い山羊を想像してみた。
「山羊はいつも重い金時計を首から下げて、ふうふう言いながら歩き回ってたんだ。ところがその時計はやたらに重いうえに壊れて動かなかった。そこに友だちの兎がやってきてこう言った。〈ねえ山羊さん、なぜ君は動きもしない時計をいつもぶらさげてるの?重そうだし、役にもたたないじゃないか〉ってさ。〈そりゃ重いさ〉って山羊が言った。〈でもね、慣れちゃったんだ。時計が重いのにも、動かないのにもね〉。」
 医者はそう言うと自分のオレンジ・ジュースを飲み、ニコニコしながら僕を見た。僕は黙って話の続きを待った。
「ある日、山羊さんの誕生日に兎はきれいなリボンのかかった小さな箱をプレゼントした。それはキラキラ輝いて、とても軽く、しかも正確に動く新しい時計だったんだね。山羊さんはとっても喜んでそれを首にかけ、みんなに見せて回ったのさ。」
 そこで話は突然に終った。
「君が山羊、僕が兎、時計は君の心さ。」
 僕は騙されたような気分のまま、仕方なく肯いた。
                    村上春樹著『風の歌を聴け』による                                                            

 この小説の「重い金時計」とは、その人がこだわってきた価値観の象徴である。自分よりも上の世代を考える方がわかりやすい。高度成長期は東京タワーに象徴されるようにピラミッド型の社会の中で、追いつけ追い越せと働き、努力すればそれなりに報われる社会であった。夢を描ける時代でもあった。それが次第に変化して、様々な問題が可視化される世の中に変わった。背景にはお金とか学歴とか地位とかがあって、そんな金時計という価値観に縛られている人が多かった。今も少なくはない。多くの場合において、自分の金時計には気がつかない。世代によって、金時計に象徴されるような価値観が違うように思う。そもそも、そんなものはないという人が近年は増加しているのではないだろうか。死んでしまったら終わりなので、どんなに立派な金時計であっても儚い。
 大島の旅で長渕剛に会うことはなかったけれど、あのハンモックのことは忘れないと思う。いつのまにか私は地に足を付けてしまったらしい。本当は不安だらけなのに、宙づりになる自分をどこかで捨てている。金時計って重いなと思う。


プロフィール
桜川冴子(さくらがわ・さえこ)
1961年、水俣市出身。福岡市在住。著書は第5歌集『さくらカフェ本日開店』(2019)等がある。「かりん」所属。
大学准教授。筑紫歌壇賞・福岡市文学賞などの選考委員。太宰府天満宮短歌大会・福岡県医師会歌壇などの選者。
今年から月に1回、「天神文化塾」(福岡文化連盟主催)でコーディネーターをしている。

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