2009年に作歌を始めてから、3年ほど投稿に精を出していた。投稿先は「ダ・ヴィンチ」の「短歌ください」(穂村弘 選)、笹公人さんのブログ「笹短歌ドットコム」、そして日経新聞日曜版の「歌壇」穂村弘欄。始めたばかりということもあり、投稿に添える名前はバラバラだった。「短歌ください」では昔使っていたハンドルネームを使い、一方で「笹短歌ドットコム」ではつけたばかりの現在の筆名を用いた。では、日経歌壇にはどの名前で送っていたのか。
それは当時の本名だった。
日経歌壇に最初に投稿した頃はまだ筆名を考えていなかった。4回目の投稿で掲載に至り、翌月曜の職場でそれを見つけた。期限つきで出向していたその職場は西麻布にあった広告制作会社で、新人の私には15段(1ページ)、30段(2ページ)の新聞広告のスクラップという仕事があり、人のいないライブラリーで私は、何食わぬ顔をしてその記事を切り取った。本名が活字になり、日経新聞に載っている。でも会社の誰もがそのことに気づいていない。ちょっぴり痛快だった。
今の筆名を名乗るようになってからも、日経歌壇には本名での投稿を続けた。「一度載ったからにはこのままで」ということが大きいが、もう1つ理由があった。療養中だった岩手の祖父が読んでくれるようになったからだ。間質性肺炎を患い、外出もままならなくなっていた中、祖母が近所のローソンで日経新聞を買ってくるのを毎週楽しみにしてくれていた。載っていても、載っていなくても。ときどき載る歌を、祖父は「たいしたもんだじゃ(たいしたものだなぁ)」と言っていたらしい。私の名前は、祖父がつけたものだった。
そんな理由から、最初の1年は特に、毎週きっちり3首ずつ投稿し続けた。掲載作にはこんなものがある。
風光る夏の画塾よ弟がスケッチブックを見せてくれない(日経歌壇2010年9月5日)
高校生だった弟は、にょきにょき成長してサラリーマンとなり、もうすぐ30歳を迎える。美大などには行かなかったが、今は仕事のかたわら本格的に写真をやっており、前任地では営業に行く先々で年配のお客さんから古いフィルムカメラを譲ってもらっていた。先日会って食事をしたときは、食べ終わったあと両手で私に伝票を差し出してきた。末っ子である。
当時の切り抜きを眺めていると、今活躍している人たちの名前も見つかる。
とある朝クリーム色の電話機に変化(へんげ)なしたり受付嬢は 本多真弓(日経歌壇2010年4月11日)
サンダルの君の小指が少しだけそっぽを向いて線香花火 寺井龍哉(日経歌壇2010年9月5日)
本多作品は、人を配置することをやめ、内線電話を置くようになった会社の受付を題材にしている。「受付嬢」が「クリーム色の電話機」に「変化(へんげ)」したかのような見立てが面白い。掲載から12年経つが、人の仕事が機械に置き換わる流れはさらに加速してゆくだろう。寺井作品のポイントは「そっぽを向いて」いる「君の小指」。線香花火はしゃがんでそっと炎を楽しむものだからこそ、「君の小指」が近くに感じられたのだと思う。実は背景にしっかりとした観察がある歌だ。
祖父は2011年の初頭、震災が来る前に亡くなった。
雪の朝 喪の身支度に妹は呟けり「真珠って冷たい」(日経歌壇2011年2月27日)
喪服を着て、真珠のネックレスを身に着けた妹が口にした一言。私も妹も20代の半ばで、本物の真珠なんて持っていなかった。親戚に借りた〈本物〉の重く冷たい質感に、妹は驚いたのだろう。故人の仕事の関係で、葬儀はちょっと仰々しく、そしてどこかよそよそしく、寄る辺ない気持ちだったことを覚えている。岩手日報には訃報が載っていた。
祖父は日経歌壇の掲載歌を知り合いにも見せていたらしく、弔問客の中には私に声をかけてくれる人もいた。
慣れない雪に足元をとられながら、妹と2人で北上川にかかる橋を渡った。「ぐぁー」という鳴き声に驚いて見上げれば、真っ白な白鳥が頭上を横切ってゆくのだった。「ああ、私はどこにいるのだろう」と思った。
日経歌壇には3年間投稿を続け、2009〜2011年まで年間秀作の中に選出してもらい、そのあたりで投稿からはすべて卒業した。祖母は祖父が亡くなってからもしばらく日曜の日経を買ってくれていたが、その後ローソンは潰れ、祖母自身も90歳を越えて1人で出歩くことはなくなった。
投稿によって育てられた私は、今年、現代歌人協会「全国短歌大会」の選者として投稿作を読むことになった。心細く雪道を歩いていたあの日から、ずいぶん遠いところまで来たのだと思う。
プロフィール
鯨井可菜子(くじらい・かなこ)
「星座α」所属。 第1歌集『タンジブル』(書肆侃侃房・新鋭短歌シリーズ2、2013年)。出版社勤務。