3歳のトーと一緒にドラッグストアの駐車場前を歩いていたとき、以前同じ保育園に通っていたオニくん(小2)と、小型犬の海ちゃん、その飼い主のおばさんが通りかかった。
紫の眼鏡に薄紫のスカーフを合わせたお洒落な装いのおばさんは、トーを見るといたずらっぽい顔になって、
「そうだ。ねえねえ、おばさん面白いもの見せてあげる」
と、散歩用バッグの中からスマホを取り出した。みんなで覗き込むと、画面一杯に海ちゃんの画像が映っている。おばさんが再生ボタンを押すと、画像の口の部分がぱくぱくと動いて、
「やあ、こんにちは。ぼく、カイだよ! ぼく、ビスケットを食べるのが大好き!」
と、甲高い声が聞こえてきた。
「あっはっはっ。カイちゃん、喋ってますねえ」
「ねーっ、面白いでしょう? うちの孫たちにも大ウケ」
「これ、なんてアプリですか」
「なんだったかしら……。いやねえ、最近何でもすぐ忘れちゃう。『ペット しゃべる』で検索したらたぶん出てくるわよ」
大人二人が大いに盛り上がるなか、オニくんはいかにも利発そうな大きい眼をぐるっと動かして、きっぱり宣言した。
「でも、おかしいよ。犬は喋らないよ!」
一方のトーはと言えば、海ちゃんの動画にひとしきり爆笑していたが、おばさんの横に控えている本物の海ちゃんをまじまじと観察し始め、数分の後、
「カイちゃん、しゃべらないよねえ」
と訝しげにため息をついた。
「ソラもワンワンって言うけど、おしゃべりはしないよね」
ソラとは夫の実家の犬の名である。3歳児なりに比較対象を持ち出して検討しようとしていることを面白く思いつつ、
「まあ、カイちゃんもソラも、人間の言葉に直したらだいたい『ビスケット大好き!』って言ってるんだと思うよ」
と雑に話をまとめると、トーはわかったようなわからないような顔をしていた。
さて、この会話から、
私「カイちゃん、喋ってますねえ」
オニくん「犬は喋らないよ」
トー「カイちゃん、しゃべらないよねえ」
という部分だけを抜き出せば、「犬が喋る」ことを認めているのは私一人で、オニくんとトーは「犬は喋らない」派であるかのように見える。けれども、事実は逆だ。
トーは、海ちゃんが本当に喋る可能性があると考えたからこそ、画面の中の海ちゃんではなく、本物の海ちゃんに注目し続けた。オニくんは小学生なりの一般常識に基づいて「犬は喋らない」と断じたものの、その常識と、目の前で(スマホの中だが)犬が喋っているという現実との間で折り合いが付かず混乱しているようにも見え、その心の揺らぎは、私にはとても貴重なもののように思われた。
ところが私は、動画を見た瞬間に「動物の画像の口だけを動かして、まるで喋っているかのように見せられるアプリがあり、そのアプリでおばさんが動画を作ったのだろう」と察してしまった。そして、それらを全てショートカットした上で口に出したのが、「カイちゃん、喋ってますねえ」という、つるんとした言葉だった訳だ。
もちろん、私の発言は「正解」だ。けれども、子どもたちの生き生きした反応を見ていると、何やら胸がざわついてくる。もしかしたら私は常日頃から、言葉を発する前にいろいろな物事をショートカットしすぎているのではないか。その過程で何か取りこぼしたものはなかっただろうか、と。
例えば短歌を作るとき、私は目の前に見えているものだけでなく、これまでの記憶や知識を総動員して言葉を選択している。その意味で言えば、身に溜め込んだストックは多いに越したことはない。しかし、蓄積された「常識」に従って、あまりにも簡単に言葉を発するようになったら、きっと歌は痩せてしまう。折に触れて心に兆す新鮮な驚きや疑いを手放さず、自分の目で世界を確かめ直していく。そのことの大切さを、子どもたちはいつも教えてくれる。
大人として生きている以上、毎度毎度「もしかしたら犬は喋るのかもしれない」という地点からやり直していたら、日常が成り立たないのはわかっている。でも、せめて、たまには道端にしゃがみこみ、犬の挙動をじっくり観察する時間を持つよう心がけたい。「犬は喋らない」と宣言するのは、それからでも遅くない。
犬の国にも色街はあり皺くちやの紙幣に犬の横顔刷られ 石川美南
プロフィール
石川美南(いしかわ・みな)
1980年生まれ。同人誌poolおよび[sai]の他、さまよえる歌人の会、エフーディの会、山羊の木などでぽつぽつ活動中。2020年、第1回塚本邦雄賞受賞。歌集に『砂の降る教室』『架空線』『体内飛行』など。趣味は「しなかった話」の蒐集。