さざなみの下はあかるき死の広場白き脊椎を曳きたる頭蓋
玉城徹(『馬の首』日本文芸社、一九六二年)
二〇一七年に刊行された『玉城徹全歌集』には新鮮な驚きがあった。特に『馬の首』の全貌を知ることができ、若かりし玉城の軌跡をつぶさに見ることができた。
小犬つれしやさしき少女の顔をして夕べの雲はくづれつつゆく
太陽の青き破片のごとき魚そらにうたふを今朝はきくべし
神の血のしたたるごとし対岸の空ひとところ黄にかがやきて
鳴く虫のごとき顔して暗黒にわれをみちびかんとして祖(おや)ら立つ
かぎりなき微笑もちて夕ぐれの水底にをるものある如し
一首目、「小犬つれしやさしき少女の顔」は下の句にかかる比喩である。二首目も「太陽の青き破片」のように「魚そらにうたふ」とあるが、全く現実を説明していない。三首目の「神の血」の比喩のスケールがあまりに大きい。四首目、「鳴く虫のごとき顔」は「虫が鳴くごとき」といった明快な表現はあえて使わない。五首目にいたっては、何を譬えたのか比喩の対象すら書かれていない。玉城は比喩と対象とを徹底的にずらすことで、言葉から生まれる美を表そうとしたのではないか。
つぶやきて街灯は言ふなまぬるきはやての中に街灯は立ち
山なみの青きが中へ燃えつかんばかりに澄みて線路はカーブす
馬方をはなれてひとり山みちを馬はくだり来その山のみち
鳰どりのめぐりを涵(ひた)すかげの中きらめく針はしきり現はる
また、係助詞「は」を効果的に使った歌も多かった。「は」を用いることで、「街灯」、「線路」、「馬」、「針」にスポットライトが当たり、まるで意思をもっているかのように動き出す。
『左岸だより』から、「いづこにも貧しき路がよこたはり神の遊びのごとく白梅」は昭和二十二(一九四七)年、二十二歳の作品であることが分かっている。およそ二十代にあらゆる歌の方法を試みたのであろう。玉城は「あとがき」において、自らの姿勢を高らかに述べている。
これらの作品に、わたしは、自己の刻印を示そうとしたのではなかった。抽象的思考―言葉をかえていえば、一の「美」への祈願―は、つねに、自己の抹消の企図をふくむのである。
玉城の試みは、「われ」を抹消するためのものであったのだ。しかし、歌集を通読すると、そうとは言い切れない歌も多かった。
卒業近き生徒が室に入りくれば顔あげて見るわれの座席より
机の下にはだしの足の大きかりしかの若者の死を伝へ聞く
自己と生徒との距離をリアルに表現している。二首目は、『左岸だより』で詳述されており、裸足の生徒が自殺しても誰も気に止めない、戦後の淋しい光景を切り取っている。ここには、はっきりと作者自身が刻印されている。また、戦争の歌にも同じことが言える。
冬空は胸に灼きつけりわれもまた過ぎし戦ひの兵士の一人
原爆を投下せしアメリカの卑劣なるこの沈黙を見るべし世界も
玉城は、昭和二十(一九四五)年三月二十日、二十一歳の時に福山市の陸軍船舶機関砲部隊に入隊し、九月に復員している。宮柊二のように一兵卒として戦地に赴くことはなかった。
死者のひげのびゆくといふことよりもしづけし湖の岸は芽ぶける
かなしみに波だつごとき暗黒に入りゆかんとす道を曲れば
くらやみの襞より見ればいしみちは脆き夜空につづきてゐたり
地下壕のさむき眠りよりめざめるわれならなくにきらめき滴る
これらの歌を見ると、いかに戦争が若い玉城の心を蝕んでいたのかが分かる。何を見ても、「死」や「闇」がべったりとはりついている。
さざなみの下はあかるき死の広場白き脊椎を曳きたる頭蓋
冒頭の歌は、「かぎりなき寂しき波のおきふしに聴くしづかなる波の響や」から始まる連作の一首である。ぞっとする歌である。さざ波の下には「あかるき死の広場」が広がっており、頭蓋が白い脊椎を曳いて漂っているのである。「さざなみ」、「あかるき」、「白き脊椎」と色彩は白く明るいのであるが、とてつもなく暗く冷えている。玉城は、宮のような「リアルな死」ではなく、「死そのもの」を捉えようとしたのではないか。
戦中、戦後は「死」に満ちていた。そして、表面的には平和な時代を経て、今、新型コロナウイルスによって、全世界で五五五万人、日本でも二万人近く亡くなり、また今も増え続けている。感染者、重症者、死者は数字によって日々更新されていく。また、重症者は隔離され、家族は看取ることも、十分な葬儀もできない。
このリアリティーに欠いた「死」といかに向き合うのか、玉城の歌は静かに語りかけている。
プロフィール
楠 誓英(くすのき・せいえい)
一九八三年、神戸市生まれ。歌集に、『青昏抄』(現代短歌社、二〇一四年)、『禽眼圖』(書肆侃侃房、二〇二〇年)がある。共著『恂{邦雄論集』(短歌研究社、二〇二〇年)。