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会員エッセイ

2021/12/01 (水)

【第3回】歌を訳す   堀田季何

 時折、短歌を訳すことがある。仕事の時もあるし、ボランティアの時もある。どの言語からどの言語に訳すかで事情が少し変わるが、日本語から英語の場合だと、五行に訳すことが多い。また、訳された短歌の韻律を五七五七七に整えることはせず、もとの歌の「焦点」を絶対に維持しながら、その「焦点」が英語で極力自然な流れで提示されるようにしている。達成できるかは歌によるが、少なくとも、そう努力している。
 短歌の英訳が、五行の場合が多いこと、五七五七七の定型でない場合が多いこと、の二点は、そもそも英語で書かれている短歌自体が無題の自由律五行詩である場合が多いことから、当然の帰結である。米国のTanka Society of Americaが「Modern English Tanka」誌(以下、MET)と提携して発行した『Tanka Teachers Guide』(英語圏向けの短歌教本)には、METの編集人Denis M. Garrisonが「Defining Tanka」という文章を寄せているが「「短歌」は、無題の、脚韻のない五行詩である。(中略)英語で書かれる短歌においては、定型に関するルールは存在しない。但し、定型に関しては多くの意見があり、その一部は堅く信じられている」とあるし、オーストラリアの「Eucalypt」誌のHPには、「日本の和歌(現在は短歌と呼ばれている)は、五部構造の詩である。英語では、五行で書かれる場合が多い」とある。無論、定型については、英訳でも五七五七七にすることも技術的には可能であって、ジェイムズ・カーカップのような訳者は実践していたが、それはもとの歌の韻律を訳したことにはならないので、どこまで訳として有効かは疑問であると思っている。英訳する以上、しかも、英語圏で短歌が自由律で通っている以上、韻律よりも「焦点」の最適な伝達にこだわった方が良いように思える。
 さらに、英訳の場合、文章の構造が違う言語なので、「焦点」を大事にしようとすれば語順を大胆に変える必要が出てくる。もとの歌の語順をなるべく変えないで日本語の短歌を英訳しようとする人がいるが、あまり成功しているように思えない。小説などでは、訳者が出しゃばらずに、原文に忠実に訳して読者に解釈を委ねた方が上手く行くことが多いが、短い韻文である短歌の場合、意訳の必要性もたまに生じる。もとの歌にない言葉を補う場合もあるし、どうしても訳者の解釈を決めなければ訳せない時もある。
 日本語の短歌を英訳する困難は、日本語が孤立言語の一つであることから生じる。以前、モンテネグロの詩祭に参加した際、翻訳者の会議に出席したが、ヨーロッパの詩人たちはもとの詩の韻律さえも翻訳時に維持する話をしていた(五七五七七のようなリズムを維持する話でなく、もとの詩の音そのものの響きを維持する話だった)。互いの言語が親戚同士で、ほぼ同じ響きの言葉に恵まれているからそういう発想が出てきたのだと思うが、日本語話者である私はその話に笑うしかなかった。
 日本語にあって英語にない言葉は決して少なくない。特に、詩語やオノマトペが出てきた場合、絶望的になる。同じ意味の言葉があっても、英語では長ったらしい学名しかないこともよくある(植物、魚、気象など)。それ以前に、丁寧に漢字、片仮名、平仮名で表記の使い分けがされていた歌でも、そういった表記上の配慮や効果を英訳に反映できる確率は皆無に等しい。序詞や掛詞が使われていたら、面倒な回りくどい訳になってしまうので、英訳にどうしても反映させるべきか、それとも註釈にいれるべきか、訳者は考えなくてはならない。日本情緒や行事は註釈でも入れない限りどうにもならない。日本語の口語短歌では、作中主体情報に関するヒントになり得る女言葉や年寄り言葉などが使わることもあるが、当然訳せない。逆に、英訳する際、訳者は名詞の単数複数を明快にしなくてはならない。
 こういった制約の中、前述のように、「焦点」だけは絶対に維持するように英訳するのである。すでにお気づきの読者もいらっしゃると思うが、もとの歌によっては、「焦点」以外が翻訳の過程で吹っ飛んでしまって、英訳ではもとの歌の魅力がこれっぽっちも英語話者の読者に伝わらないことがある。もっとひどいことに、韻律や調べそのものがもとの歌の「焦点」且つ魅力だった場合、その歌は実質上翻訳不能である。英訳がどこまで成功するかは、もとの歌次第であるが、それは歌人の作風に依拠する。英訳しても駄目な歌が八、九割占める歌人も存在する。これは仕方がない。
 いずれにせよ、もとの歌を一回ばらばらに解体して、新たな形に組み上げる作業(オペ)が必要になってくる。そのオペが成功するか失敗するかは、もとの歌を見れば訳者は大体予想できるが、それでも訳者は果敢に取り組むのみである。
 余談であるが、昔、某出版社社長と話している時、その翻訳オペを敢えて「手術」に喩えてみたが、それを聞いた社長は翻訳に関する知識が皆無だったようで、その喩を珍妙に感じたらしく、マルチリンガルの環境で育った私の日本語はおかしい、と思われてしまった(と共通の友人から後日聞いた)。おかしいならおかしいで構わないと、私は開き直り、次の歌を作った。

翻訳は手術のごとしメスで切り裂き剥がしばら、ばらにして縫ふ   『惑亂』



プロフィール
堀田季何(ほった・きか)
1975年生まれ。歌誌「短歌」同人、俳誌「楽園」主宰。「飲食(おんじき)」で第2回石川啄木賞(短歌部門)。歌集『惑亂』で平成28年度日本歌人クラブ東京ブロック優良歌集賞。他の詩歌集に、句集『亞剌比亞』・『星貌』・『人類の午後』。

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