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2025/02/02 (日)

【第41回】源実朝の実像探訪   古谷智子

 源実朝は、今から八百年以上も前の人物だ。しかし、その人気は衰えることがなく未だに深い親愛の情を寄せられている。いわく、悲運の貴公子、悲境の歌人、繊細な賢君、武門初の若き右大臣、悲劇の将軍、源氏最期の血筋、源氏将軍家の断絶、等々。いずれも短命な生涯を惜しむ気持ちに溢れている。
 評論、小説、ドラマなど広範囲にその夭折が語られ、謎に包まれた暗殺の意味が問われ続けている。それ故に、太宰治、小林秀雄、吉本隆明、大仏次郎、永井路子ら著名な評論家や作家の筆になる小説、評論、評伝は数多い。
 令和二年(2020)上梓の佐藤雫の小説『言の葉は、残りて』は、実朝を主人公にして、権大納言家から嫁いだ正妻坊門信子との情愛を描いており、これは、第32回「小説すばる新人賞」を受賞した。新世代作家といわれる佐藤は、昭和六十三年(1988)生れで、令和元年(2019)にこの新人賞を得ている。実朝は、新世代の感性をも大いに刺激したということになる。
 近年では、令和四年(2022)のNHK大河ドラマにも登場した。実朝を演じた劇団四季出身の俳優である柿澤勇人は、祖父、曽祖父がそれぞれ三味線、浄瑠璃の名手として人間国宝なのだが、その血筋の良さを滲ませつつ哀切な実朝の生涯を演じ切って、視聴者の耳目を集めた。柿澤の芸能人としての血筋の良さは紛うことがないが、その天性の気品が、実朝という役どころに大いに寄与したのは間違いなく、以後のめざましい活躍ぶりは、実朝効果といってもいい程だ。
 実朝は、清和源氏頼信の流れで河内源氏の嫡流だ。申し分のない血筋をもち、武門にありながら家集『金槐和歌集』を編んだ優れた歌人であり、また人柄も、多くの評伝に見られるように温厚で思いやりのある逸話から、豊かに際やかに立ち上がってくるのだ。

 源実朝は、建久三年(1192)八月九日、源頼朝と北条政子の次男として名越の浜御所で誕生した。幼名を千万(千幡)と名づけられ、十二歳で兄である頼家の跡を継いで第三代征夷大将軍となったが、健保七年(1219)二月十三日、頼家の長子公暁に暗殺され二十八歳(満二十六)の短い悲劇的な生涯を終えた。
 令和七年(2025)の今年、実朝の生誕から実に八三三年という時が流れ去った。この悠久の年を隔ててもなお彼に対する人々の愛着と敬愛の念が衰えないのは、実に不思議なことだ。八百年前とは異次元の文明を誇る現代人のこころを惹きつけてやまないのは何故か、その生涯をなぞりつつ魅力にみちた人間性に触れてみたい。
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 今まで列挙した実朝像はやや抽象的な出自や人柄、政治的な背景から浮かぶ文字上の姿にすぎないが、実朝の生の風貌というものは、時代をはるかに隔てた現代人の心をつかみ、情愛を深める上で欠かすことが出来ない要素でもあり、興味を引く。
 実像を偲ぶことができるのは、現存している数点の彫像と肖像画だが、写真がない時代である以上いずれが正真かは判じ難い。
 その姿を彷彿とさせる歴代の彫像、絵画の概要は以下のようである。

 *木造源実朝坐像(山梨県甲府市指定文化財、甲斐善光寺所蔵1222年作、最古)青年
 *源実朝木像(京都遍照心院大通寺蔵)
 *木造源実朝坐像(神奈川県鎌倉市寿福寺、 実朝の墓所)太っている
 *源実朝公御首塚坐像(秦野市東田原金剛寺、三浦氏郎党武常晴(たけつねはる))剥落
 *源実朝像(京都国立博物館蔵 重要文化財「公家列影図」部分 鎌倉時代13c)絵  
 *源実朝像(『國文学名家肖像集』)一般に流布する肖像画、小父さんぽい 
 *源実朝・像画(近衛公爵蔵)
 *武家六歌仙・鎌倉右大臣(江戸期浮世絵師 岳亭春信画)

 最後に挙げた江戸期の絵画「武家六歌仙」は鎌倉時代とは数百年の隔たりがあり、多分に美化されていると思われ信憑性に乏しい。それに対して、最初に挙げた甲斐善光寺の「木造源実朝坐像」は、令和元年、専門業者明古堂の年輪年代測定法や、放射性炭素年代測定法など科学的分析による研究で一二二二年制作と特定され、最古の木造と証明されている。実朝の生きた時代に最も近く、風貌がまだ記憶されている頃の作ということになる。実朝の死が一二一九年であったことを思うと、そのわずか三年後に彫られた坐像への信頼感は極めて高いのだ。この木像には実朝の面影が宿っているだろう。
 また、もう一つの手がかりも注目される。歴史小説家であり、整形外科医でもある篠田達明は、『日本史有名人の身体測定』(KADOKAWA)というユニークな本を著しているが、肖像画や残された衣服、甲冑、文献の記録などから有名人の体型を学術的に割り出しており、外科医としての見識をもっての推理は確実性が高く興味を引くのである。本書に収録された歴史上著名な人物は百三十二人であり、その中に実朝は入っていない。しかし、父親である源頼朝と叔父の義経の資料がある。
 頼朝は、坐像解析から身長155cmで体重60sと推定されており、また頼朝の弟源義経は、身長147cmで体重は47・5sと子細に算出されている。頼朝の次男であり、義経の甥である実朝は、両者の数値から割り出して、身長150cm内外で体重50s位だろうか。男子の平均身長159〜163cmの当時としては小柄な方だ。
 ちなみに義経の家来の武蔵坊弁慶は、実に208cm、100sと推理されており、評判通りの巨体だったという。そのほか、同時代の平清盛は巨漢で、身長は178・7cmあり、後鳥羽上皇はよく肥えて福々しい肥満体で身長170cm、さらに実朝の歌の師であった藤原定家は痩せて骨ばった体躯で167cmだったという。当時の男子の平均身長を思えば、清盛は一際秀でていた。義経は着用した鎧や古文書の記録から割り出し、頼朝は甲斐善光寺の木造から結論づけたという。やはり、甲斐善光寺の木造は、源氏一族の特徴をよく留めているようだ。
 調べた範囲では、実朝木造は四カ所の寺に保存されており、それぞれ違った趣がある。

 *京都遍照心院大通寺の木造は、頼朝と酷似しており、やや老けた感じがある。
 *神奈川県鎌倉市寿福寺の木造は、太っていてやはり年齢的に老けている。
 *秦野市東田原金剛寺の木造は、剥落が激しく、面影が忍び難い。
 *甲斐善光寺の檜の木造坐像は、修復の結果、細面で若々しく目元がさわやかだ。
 
 こうした特徴から、最古とされる甲府市指定文化財の甲斐善光寺所蔵の木造がもっとも良く源実朝の風貌を残しているものと思われ、前述通り科学的調査でも信憑性が高い。
 同寺に保存されている源頼朝像は、高さ94・5cmと中世に作られた木造では最大だが、実朝像はひと回り小さく、高さ74cm、幅115cm、奥行き60cmである。烏帽子に肩の大きく張った指貫と思われる着物を纏った坐像で、やや伏し目がちに前を見つめ、軽く口を結んでいる。ふっくらとした頬に潤いがあり、中高の細面にすっきりと整った高い鼻筋は、同寺にある頼朝木造とは違った繊細な貴公子の趣を漂わせている。衣の肩は高く持ちあがり威厳に満ちており、どことなく内気そうに見えるのはその来歴を知っているからだろうか。修復後の姿は、檜の肌がつややかで水晶で復元された瞳に青年らしいひかりが宿っていて魅力的だ。この木造が、実朝の実像に最も近いに違いない。
 はるか八百年前の青年である源実朝の実像を訪ねる資料上の探索は、ここまででもう他の手がかりはないのだが、うっすらと立ち上がった幻影は、確かな自恃を帯び、夭折の悲哀をほのかに包んで人間的豊かさに満ちている。

 鎌倉幕府第三代将軍としての侵しがたい地位と権力、それに見合うだけの気品に満ちた颯爽たる風貌が相まって、源実朝は、3D映像のように令和七年の私の眼前に甦った。実朝についてのすべての考察と、物語と、評論と、小説は、その生の風貌が立ちあがり、感情移入の可能になったここから始まるのだろう。
 決して勝者のものではないが個性的な史的業績、決して美形というのではないが何らかの風貌の魅力、そこに受容者の豊かな想像力を触媒として醸される物語こそが、温かい血の通った評論となり、詩となり、小説となると思われるのだ。ここから何を紡ぎ出すか、新たな展開をたのしむ高揚感をいだいて、今年はじっくりと、源実朝と向かい合っていこうとこころに決めたのである。


プロフィール
古谷智子(ふるや・ともこ)
昭和19年生まれ、岡山県出身。青山学院大学卒。昭和51年「中部短歌会」入会。現在同会選者。歌集『神の痛みの神学のオブリガード』『ガリバーの庭』『ベイビーズ・ブレス』『春にして君を離れ』他。評論『都市詠の百年』『片山廣子』他。元現代歌人協会理事。日本歌人クラブ参与。日本文藝家協会会員。

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