自分では全く意識していないのだが、どうやら僕は理屈っぽいらしい。自覚はない。むしろ、理屈っぽい人間は嫌いで、他人がこだわっている細部に納得がいかないことが多くて、そんな細かいことにこだわってんじゃねーよと思うことがしばしばだ。ただ、僕が話している時に相手がうんざりした顔をしている場合もあって、その時には相手のこだわりと僕のこだわりとがずれているんだろうと考えることにしている。
自分では理屈っぽくはないと思っている証拠(?)に、理屈の総体であるところの数学が全く苦手だ。証明の途中で「これは自明である」などと書かれていると、どこが自明なのかがわからなくてほんとうに困る。ちゃんと理屈を説明してくれよ、と思うのだ。もちろんそうした場合の「自明」とは、既に証明されていることが前提なのであって、それを知らない僕のほうが不明なのだということくらいは理解している。
一方でこんな理屈っぽい歌は大好物なのである。
このやうに人間が在りこのやうに世界があること すべてと言はむ
香川ヒサ『PAN』
AならばBでありかつBならばAであるとき あれは彗星?
佐クマサトシ『標準時』
香川ヒサの『PAN』は、短歌を始めてからほどなくして読んだ一冊だったが、読み終えた時の「やられた」感は今でも鮮明に覚えている。聖書の宇宙創世と洪水伝説のバリエーションがそこここに鏤められている。人間の視点、神の視点、いや神をも俯瞰する視点から描かれた歌もあって、世界への認識を根源にまで突き詰めると論理学になるような気がしたものだ。引用の歌は「このやうに」をどのように解釈するかが肝だけれど、これは読者の数だけ回答があるだろう。一方で、その認識内容がどれほど多様であったとしても、人間の認識と世界を包含した言説は揺らがない。佐クマサトシの歌については、一読した時、香川ヒサの作品世界に通じるものを感じたのだった。佐クマの作品のほうが、認識が成立する際の瞬間やそこでの違和が歌の発端になっているものが多いように思われるけれど、その表現の仕方が、情や風景をもとにしているのではなくて、むしろ即物的な、あるいは一般的な素材によって構成されているように感じられたものだ。佐クマ作品における初句から四句目までを利用した言葉は、「必要十分条件」を表現したものだろうが、その次に続く言葉が面白い。「あれは彗星?」とは、星なのか、飛行機なのか、未確認飛行物体なのか。必要でも十分でもなく、認識の中に飛び込んできた異物を何らか同定するにあたっての言葉ではないだろうか。必要十分だった筈の世界が、たった一つの異物によって、その予定調和の世界が崩壊する瞬間なのだろう。香川や佐クマのような歌を「理屈」だと言って片付けてしまうのは勿体無い。認識の成立における人間の思考の限界のようなものをぎりぎり短歌で表現しているように思われるのだ。
「光あれ」言葉生まれたその時に言葉は世界の果てに届いた
香川ヒサ『PAN』
クリスマス・ソングが好きだ クリスマス・ソングが好きだというのは嘘だ
佐クマサトシ『標準時』
「光あれ」という言葉によって光が生まれ、闇と光がわかたれた。それ以前に、神は天地を作っていたのだから、その言葉は世界の果てにまで届かなければ光はなかったということになる。「はじめに言葉があった」というヨハネ伝福音書の言葉と併せて考えてみれば、言葉が始原だったとも言えるだろう。一方、佐クマの歌からは「嘘つきのパラドクス」が思い起こされるだろう。「すべてのクレタ人は嘘つきだ」とクレタ人が言った、という矛盾。自己言及命題の限界をついたこのパラドクスはさて、「言葉は神とともにあり、言葉は神なりき」とされる言葉の、すなわち神の矛盾なのだろうか。
始まりの前か終はりの後なるか冬日ひんやり広場に充つる
香川ヒサ『PAN』
本日の放送は終了しました。私はまだ、考え事をしています
佐クマサトシ『標準時』
終わることと始まること。始まりがあって終わりがある。つまり次の始まりのためには前のものが終わる必要がある。
この理屈っぽいエッセイもこのへんで終わりにしましょう。考え事をしながら次を待つことにして。
プロフィール
大井学(おおい・まなぶ)
1967年 福島県二本松市生。「かりん」編集委員。