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2024/10/01 (火)

【第37回】大西民子の「沈む」寸感     今井恵子

 半世紀前、指折り数えて短歌を作り始めたときに、上達するにはどうすればよいかと先輩に訊ねた。彼は「優れた歌集を書き写すのがよい」と答えた。またの或る日、上達するにはどうすればよいかと武川忠一先生に訊ねた。「そんなことは自分で考えるんだよ」と諭された。が、後日、「こういうのを読んでみるといい」と歌集を1冊貸して下さった。大西民子第4歌集『花溢れゐき』だった。
 わたしはお借りした『花溢れゐき』を、数日かけて筆写した。青春期特有の対人恐怖症的緊張感に鬱屈を深めていたわたしは、没頭できる作業を見つけた気がして、居住まいを正し、息をつめて1字1字書き写した。その時の自室のシンとした空気は今でも覚えている。筆写して何ほどのことが分かったかは、すでに記憶の奥底に沈んで思い出せないが、ふと思いついて、久しぶりに『花溢れゐき』を読んだ。

  橋下の水のをりふし透きとほりわが沈めたる赭(あか)き石見ゆ   『花溢れゐき』
  体温を計られて来て危ふきに水に沈めるスプーン輝く
  いくたびも沈みては浮く夢のなか沈みきりたくなりて沈みき

 「沈む」に目が留まった。「沈む」は、歌集の中で多くなく、殊のほかの佳品というのでもないが、今のわたしの心に触れた。「沈む」の下降感覚に、作者の素顔が滲んでいるような気がしたのである。これは、今年の「現代短歌新聞」9月号のコラム「大西民子没後30年 失意の美学」(都築直子)で指摘されている「「悲劇」路線」に重ねられるとおもう。コラムは、大西民子は生涯を通じて「「悲劇」路線」を貫いたと述べている。
 『花溢れゐき』を読みながら、若い時には秀歌ばかり探して、「沈む」のような語彙の機微を感知できずにいたなぁと、自分に過ぎた半世紀に感慨を深くしたのである。

  今は誰にも見することなきわが素顔霧笛は鳴れり夜の海原に     『まぼろしの椅子』

 大西民子は第1歌集でこのように歌っているが、人工的に取り繕われた他所向きの顔の奥に隠されながらも、おのずと素顔のもつ心情は作品の中に滲みだすものである。あらためて大西民子の「沈む」に注目した。
 言うまでもないことだが、「沈む」は或る位置から下方への動きを示す言葉だ。けれども同じ下方への動きを述べる「下がる」「落ちる」に比べると、何ほどかの皮膚感覚と緩やかな時間を感じさせる言葉である。たとえば1首目の「沈めたる」は、「われ」によって沈められた石の動きでありながら、沈んでゆくときに石の表面を撫でた水の感触が思われる。その感触に、「われ」の身体が同期してゆくような趣が添う。そのため、即物的描写でありながら、寓意的意味へと読者の深読みを誘う。即物と寓意のどちらと断じることなく眺めていると、一流れの気分がバランスよく膨らんでくる。大西民子はこの辺の言葉の斡旋が実に巧みである。
 広辞苑で「沈む」の項をみると、「零落する」「力が弱る」「再起できなくなる」「気がふさぐ」などのネガティブイメージが記される。大西民子の人生ドラマを念頭におくと、これら負のイメージを重ねてみたくもなるが、ここは、もう一つの意味「色や音が周囲と際立たず落ち着いた感じ」と読みたい。すなわち、「石」や「スプーン」や「わたし」が、「在るべきところを得て落ち着いた」と読みたいのである。もちろん、背後には落ち着くまでの時間と、身をもってその時間を通過して来た「失意」の体験が膚触りとして溶け込んでいる。

  いづこにか生きながらへて沈みさうに歪む屋根など今もゑがくや  『雲の地図』
  綿虫の芯ほのじろく宙に浮き消え入るやうに沈みてゆけり    『印度の果実』

 『雲の地図』は第5歌集、『印度の果実』は第8歌集である。前の歌は、「沈みさう」で不安定な感じ、後の歌は一部始終を見とどけた感じだが、「沈む」が含意する時間経過と体感の同期が、歌の眼目だろう。
 「沈む」というと、わたしは斎藤史の次のような歌を思い出す。

  遠い春湖(うみ)に沈みしみづからに祭りの笛を吹いて逢ひにゆく   『魚歌』
  沈むべくはわがあなうらよ泥沼の底に至れと祈る景色や      『新風十人』

 両者の歌を比べてみると、斎藤史の自己存在への疑いの無さと対照的に、大西民子の歌は、描く対象に主体が次第に引き込まれて自己が揺らぐ感じがある。端的にいえば、強い自我が貫かれている斎藤史の歌は、読者を憂鬱にしない。対して、大西民子の(都築直子のいう)「失意」は、読者の気持ちに深く染み入って来る。
 実際に作者に会ってみると、作品から思い描くイメージと印象が全く違うことは珍しくない。わたしが初めて大西さんに会ったときの印象もそうだった。大西さんは、今でいうキャリアウーマンの風格で、どっしりと椅子におさまり、濃く白粉を刷き矜持を保ち、丸い顔をすこし上向きにして、空中に白い煙を吐きながら煙草を喫んでおられた。落着き場所を求めて身を沈めてゆく「失意」の女性とのイメージギャップに、わたしは驚いた。どちらが真の大西民子かという問いは愚問だろう。どちらも大西民子に違いない。歌集を再読三読する醍醐味は、このようないろいろな表情を発見することにある。しばらく経ってもう1度読んでみようと思わせる歌集に多く出会いたいものである。(了)


【今井恵子 略歴】
1952年  東京都生まれ。現在、埼玉県鴻巣市在住
1973年 早稲田大学在学中に「まひる野」に入会して作歌を始める
現在、「まひる野」の選歌・運営委員
歌集:『分散和音』(1984/不識書院)
『ヘルガの裸身』(1992/花神社)
『白昼』(1996/砂子屋書房)
『渇水期』(2005/砂子屋書房)
『やわらかに曇る冬の日』(2012/北冬舎)
『運ぶ眼、運ばれる眼』(2022/現代短歌社)
歌書:『富小路禎子の歌』(1996/雁書館)
『ふくらむ言葉』(2022/砂子屋書房)
編著:『樋口一葉和歌集』(2005/筑摩書房)
2008年「求められる言葉」にて第26回現代短歌評論賞受賞
2023年『運ぶ眼、運ばれる眼』にて第9回佐藤佐太郎賞受賞

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