落合直文に「詩神像」という随筆がある。
知り合いの若い画師が、詩の神の像を描いたと言って持ってきたが、見てもピンとこない。また描いてきたが、それもしっくりこない。三度目のものも、何かが違う。すると、その画師に、では、「君の想像せる詩神のさまはいかに」と訊かれた。そこで、考えてみたものの、答えられなかった。さらに、時間をもらって考えたが、二日経っても三日経っても、二十日以上経っても答えが出ず、返事ができなかった。
と、その話を、たまたま訪ねてきた歌誌『莫告藻(なのりそ)』会の毛呂清春(もろきよはる)氏にしたところ、会員たちの考えを訊いてみたら面白いのではという話になった。ということで、直文は、「あはれ、会員各自が、詩神につきて、常に、想像せる事どもをかきおくられなば、わがよろこびは、さらなり、かの若き画師のよろこびも、いかばかりならむ。」と心弾ませた。
詩の神――いるのだろうか。どういう姿をしているのだろう。屈強な感じはしない。風のようにとりとめがなく自由な……。だが、ぼんやりとは浮かぶけれど、いざ描こうとすると難しいし、強いてかたちにしても、世の中に溢れている何かの像をなぞったものになる気がする。
この随筆が記された明治三十六年当時、「詩」とは、漢詩のことであり、同時に、西洋の影響を受けた近代詩のことを指していたようだ。「歌」はまた、別なものである。が、新体詩の作者として知られ、その要素を取り込みつつ和歌の改良を目指していた直文にとって、いわゆる詩情、ポエジーにおける詩と歌の境はどれほどあったか、少なくとも、その神をイメージする時に。
詩歌の神と言えば、日本では、まずは菅原道真。天神様のご神像はあちこちで造られていたろうし、歌舞伎の「菅原伝授手習鑑」、それを描いた錦絵などによって、菅公の姿は何となくでも刷り込まれていただろう。
それから西洋のものとしてはミューズ。ミュージアムの語源ともなった、文芸、芸術、音楽の神である。直文も関わりの深い、明治三十三年創刊の「明星」には、たびたび挿絵として、ミュシャ風の西洋の女神のような人物が描かれてあるし、また、星を冠したキューピッドも登場していたので、それらの印象も影響を与えただろう。
菅公とミューズでは、姿がだいぶ違うけれども……。
さて、随筆の後半には、神の姿を会員に想像してもらうときのヒントとなる、〈観点〉が挙げられている。実に、二十五個。たとえば――。
・春の神か、夏の神か、秋の神か、冬の神か。
・おそるべき神か、したしむべき神か。
・御身は、ふとり給へるかたか、はた、痩せ給へるかたか。
・男神、女神、御年は、いくつばかりにか。
・冠、または、帽子などは、めさせ給はずや。
・上方には、星、月、虹などは、見えずや。
・下方には、童子、または、鳩、白鳥などは、居らずや。
・御翼などは、おはすや、おはせずや。
・御手にもち給へるものは、薔薇、百合、藤、蓮、萩、菫、桂、梅、桜の類か、又、琴、笛、簫、バイヲリンの類か、又、杖、矛、弓矢の類か、又、筆、短冊の類か。
最後の問いを見ても、「簫」、「短冊」から、「薔薇」、「バイヲリン」まで、かなりの和洋混淆ぶりがわかる。詩の神のイメージも多岐にわたる予感がする。が、質問はかなり具体的なので、ひとつひとつに答えていけば、像はそれなりにまとまってくるかもしれない。令和の私たちもこれらを元に、自分なりの「詩神像」を思い描いてみても面白いのではないだろうか。
いずれ、詩の神に頼りたくなることはある。詩想を、作り出すというより、はからずもどこかからやってくるものとして感じているし、「降りてこないかなあ」と待つようなときもある。それはどこからかと言えば――天からだろう。では、天はどこにあるのかと言えば――自らの上に、そして、自らのなかに広がるものに思われる。
さ夜中にひとり目ざめてつくづくと歌おもふ時はわれも神なり 直文
プロフィール
梶原さい子(かじわら・さいこ)
1971年宮城県生まれ。「塔」選者。歌集に『リアス/椿』(葛原妙子賞)、『ナラティブ』等。歌書に『落合直文の百首』等。現代短歌評論賞。