前田夕暮の作品の内、系統立てて書く論からは、外れてしまいがちだけれど魅力のある作品を、全集を散策するようなつもりで、「ぷりずむ」に毎号1首とりあげて書いています。隔月刊の定期刊行物なので、半ば強制的に向きあうことにもなりますが、思いの外、その時々に受け止めるものがあり続けて10数年になります。
前田夕暮はどんな歌人なのかざっと記しますと、明治16年(1883)に神奈川県に生まれ、明治時代末には、若山牧水と共に自然主義短歌の旗手として活躍した歌人で、結社誌「詩歌」を主宰し大正時代の半ば一旦は休刊しますが、昭和4年に復刊。大正時代末には北原白秋の「日光」創刊にも加わります。昭和初期に東京朝日新聞社が企画した「空中競詠」を契機に自由律短歌へと突き進みます。晩年は定型に復帰し、あらたな韻律の確立を目指しますが、病気のため昭和26年67歳で亡くなります。
良く知られている歌には〈木に花咲き君わが妻とならむ日の四月なかなか遠くもあるかな〉〈向日葵は金の油を身にあびてゆらりと高し日のちひささよ〉〈自然がずんずん体(からだ)の中を通過する――山、山、山〉などがありますが、ここでは、夕暮の没後、見つかった遺詠「わが死顔」について、触れてみたいと思います。
ともしびをかゝげてみもる人々の瞳はそゝげわが死顔(しにがほ)に
みづからもすがしと思ふ清らかに洗ひ浄められしわが死顔を
かそかにわが死顔にたゝへたるすがしき微笑を人々はみむ
生涯を生き足りし人の自然死に似たる死顔を人々はみむ
一枚の木の葉のやうに新しきさむしろにおくわが亡骸は
枕べに一羽のしとど鳴かしめて草に臥やれりわが生けるがに
餅草の上にこやりて春あさきしとどをきけば死せりともなし
雪の上に春の木の花散り匂ふすがしさにあらむわが死顔は
この8首は夕暮の死後に見つかった歌稿にあったもので、「短歌研究」の前田夕暮追悼号(昭和26年6月)に掲載されたものですが、『前田夕暮全集』にはもう2首あり次の通りです。
何かいひ遺すことはなきかといはれ何もなし思ひ残すことなし
左様なら幼子よわが妻よ生き足りし者の最期の言葉
当時の歌壇でも評判になりましたが、中井英夫の『黒衣の短歌史』(1971)で「あたかも死後の世界をあらかじめ覗かせるような、無気味に美しい一連」と絶賛されました。夕暮の最期の状況については、『石本隆一評論集U白日の軌跡』から知ることが出来ます。夕暮の高弟の香川進にその弟子である著者石本隆一が、「聞き書き」した形式で記されています。
……だが、先生(夕暮)の心境なるものは「昏乱(こんらん)」でした。昏乱。こう、何と言うかな、平静な日がつづくでしょう、四、五日。畑で草を取ったり〜中略〜。しかし、ひとつ触発されると書斎へ入っちゃって、バリバリバリバリ、二、三日、ものを書きっ放しです。そうすると昏乱がくる。
この後、「聞き書き」は遺詠の四首目の「自然死」ということについて疑問を持ちながら、夕暮の歌人としての一生へと話が展開してゆきます。そういった現実の夕暮の臨終の頃の状況を知ったとしても、その作品から読者が受け止める澄みきった心境という遺影の価値が変わるものとは思えません。この「聞き書き」でも近藤武夫の項目では「香川さんに抗議するようで悪いけれど、『昏乱』ということはなかったですよ。」の言葉があり、同じ状況も人によって受け止め方が異なることがわかります。前田夕暮は自然主義の時代から自由律また定型に戻るなどその歌風の転換を五回もしましたが、それも結社を挙げて行ったためお弟子さんたちが、その都度、右往左往してしまったことは、想像に難くありません。身近に居ればいるほど大変だったことでしょう。香川進『鑑賞前田夕暮の秀歌』(1976)からはその辺の事情を窺い知ることが出来ます。
作品の背景はいろいろあるとしても、残された作品を作品として私たちは渉猟してゆくより仕方がないと思います。
晩年の夕暮の歌集、定型に戻ってからの歌集『耕土』、続く同時期の『埴土地帯』、没後の『前田夕暮遺歌集』などから、遺詠十首が、突然、詠い出されたものではなく詠われるべく詠われた歌境であったことをその歌から辿ってみたいと思います。
太平洋戦争の末期になり、夕暮夫妻も愈々疎開せねばならない状況になって、予てからの願いでもあった奥秩父入川谷での開墾生活を送ることになり、その頃の歌をまとめたのが第12歌集の『耕土』(昭和21年)です。老齢期に入って糖尿病の持病を抱える夕暮でしたから、衣食住全般、農具も不如意な戦時下にあって、その生活は困難を極めたに違いないのですが、実に満足した様子で明るく暮らしています。
わが足にあはぬ草履のいびつなれば馬の草履とわらはれにけり
働きすぎ疲れしからに座敷の内はひあるきはひあるき妻に笑はれぬ
はひあるき戸口にくれば犬さへや吾の姿をみつつ尾をふる
うましうましとてもうましといひにつつ吾は食(を)すなり薊の飯を
裏かへしに着物は着たれ山住みは笑ふ人なし吾も笑はず
蠟燭のほかげあかるき夕かれひ妻とをしつつ愉しくもあるか
蠟燭のほかげこほしみ相寄りて新聞よまむ埼玉版を
足萎えて押しあげ貰ふ山裏の尻押し坂と言ひて笑ひぬ
巻末小記には「私は私のいふところの晴天開墾をなしつつ、実によい生きかたをすることが出来た」と記し、壮年期から憧れていた帰農生活が疎開という事態とは言え実現したことを喜んでいます。けれど、さすがに妻には長く言い出せずにいたらしいことが、その行間からは伝わって来ます。夕暮夫人は狭山信乃の筆名をもつ歌人、夕暮より巧みな歌を詠むとすら囁かれていたという人ですから、夕暮文学の良き理解者だったに違いありません。疎開先の地域の人たちとも馴染んで暮らしている様子からは、夕暮の真直ぐな人間性が何より受け入れられていればこそだと思います。過酷な開墾生活の中で、肉体的に追い詰められているにも関わらず、精神的に落ち着いた生活を送ることが出来ているのは伴侶の存在が大きいと思います。折々に詠われてもいますが、『埴土地帯』には「妻」の題で10首があります。やさしい眼差しで捉えた妻の佇まいが、状況を知らねば、新妻のようにもとれるみずみずしさも湛えて詠われています。
わが妻のおこなひなべてひそかなり吾にものいふ声さへかそか
ひそひそと洗ひあげたるわが妻のいまだも濡れし髪のかなしさ
石の上に眠りてありし時のまにうつろひにけりわがうつし世は
3首目は、石の上でまどろんでいる作者で、夕暮はこのように、草の上だったり、木下などに筵を敷いたりして昼寝をします。そういった歌が折々見られます。遺詠の「〜さむしろにおくわが亡骸は」の状況も作者の中では日常の延長線上の行為なのでした。昭和初期に、飛行機に乗った感動から「自然がずんずん体の中を通過する」と詠い、自然と一体化したという感動から新たな歌の境地を拓いた夕暮ですが、出征中の息子の消息知れぬまま終戦を迎えた頃に次の2首があります。
生くること窮(きは)まりければ叫びたる己れの声は山にひびかふ
ふかぶかと己れのうちにひそみたる山山の影に抱(いだ)かれて眠る
暖房設備もさしてない秩父の山奥の零下15度という極寒の地で大自然と対峙し、壮大な会話をしているような厳かな場面が浮かびます。そして深い絶望感のなかにもある種のカタルシスが感じられます。この頃の山や谷との対話経験は、夕暮の精神の中でこの後もその終焉までも続いていったと思われます。2首目は『夕暮遺歌集』(昭和26年)からの歌で、次に遺歌集を見てみたいと思います。
いはけなき「吾」を背負ひて行きにけり遙けき光山越えきたる
わがそばに吾あり凝視(みつ)めつつ凝視(みつ)めつつ今日も夜に及べり
庭畑の菜の花あかりぬくとければ自然死の安らかさ吾は思ふなり
もう一人の吾は歩みつつ唄歌ふソンソンソンベニベニベニ
「わが死顔」一連の特異な点は「死んだ自分」を俯瞰しているような視点ですが、この1首目の幼かった頃の吾を背負ってゆく様子や、2首目の「わがそばに吾あり」の歌などからも窺えるのは、こういった把握が、ごく自然に発想されて、作者が捉えたもう一人のわれの存在をうかがわせ、わが死顔の視点と同じです。そして生前から「自然死」への憧憬をふくらませていたことも分かります。4首目では一首の中に、もう一人の吾が存在するどころか、別立てでもう一人の吾を詠っています。鼻歌のオノマトペがシャンソン風で何と楽し気なことでしょう。息遣いが伝わって来そうです。
こういった作品の延長線上に「わが死顔」があるということを思い「わが死顔」が如何に作者の中で自然に詠出されたものであったかを考えて、ざっくりとまとめてみました。
プロフィール
長澤ちづ(ながさわ・ちづ)
1946年、長崎県佐世保市生まれ。1977年、「氷原」に入会、石本隆一に師事。2006年「氷原」代表。
2013年、「氷原」終刊に伴い、「ぷりずむ」を創刊、主宰。歌集『書誌学序説』『水棲動物』『聖水伝説』『海の角笛』『フランス窓』『振り子の時計』『時の舳先』の7冊、他に『長澤ちづ歌集』。共編『今こそ読みたい近代短歌』。
現代歌人協会会員、日本歌人クラブ参与、NHK学園講師等。