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2022年4月の歌
豆の莢剥くは晩春のたのしみの一つなりにき
母ありしころ

北沢郁子 『満月』

そろそろ上着がいらなくなるころ、楽しみにしていたのは豆ごはん。母親が縁側かなにかで莢から豆を取り出しているのを見ると、ああ今日は豆ごはんだと思ったものだ。とうぜんお手伝いと称して莢剥きに加わる。莢から豆が弾け出てくるたびにわくわくした。豆の緑色は、復活の季節の到来を思わせる、エネルギーに満ちた輝きをしていた。莢の量に比べて、嵩の減った豆を不思議な気持ちで眺めたこともあった。「母ありしころ」、そう母が亡くなってしまうと豆ごはんなんか炊かない。あれは母親が子どものために炊くものだったのだ。今は豆ごはんを炊く楽しみもない。

沖ななも

2022年3月の歌
がけのひびをすら射る夕茜ゆふあかね
しゆんの時惜しわがいのち惜し

木俣修 『呼べは谺』

五十五歳の木俣修が立山の弥陀ヶ原を訪れたのは、1961(昭和36)年10月。すでに冬の気配が押し迫っていた。寝る暇も惜しんで仕事に没頭していた頃である。弥陀ヶ原への旅は、気の置けない仲間との旅であり、ひと時の休息を得ることができたのだろう。夕暮れの迫った目の前に、荒涼として広がる風景。「崩えがけ」は、修にとっては抗うものの対象に見えたのかも知れない。上の句からは緊迫した状況を彷彿させる。四句五句のリフレインは、心の内を隠すことなく表白している。「しゆんの時」をも惜しまずに生きようとする積極的な姿勢が見られる。さらに「わがいのち惜し」には、生を惜しむとともに、老境に向かう覚悟が案じされていると言えよう。

外恚ェ

2022年2月の歌
をとめの手白きひかりの添ふみれば
指長らかに菩薩のごとく

玉城徹 『香貫』

仏像と対峙していると、いつの間にか心が浄められる。憤怒の相の仏像であっても、同じことが言えるだろう。さらに仏像からは、不思議な妖気と色気を感じることがある。弥勒菩薩などはその最たるものだ。かつて、大学生が弥勒菩薩の余りの美しさから像に触れて、右手の薬指を折ってしまった事件を記憶している人もいるだろう。
掲出歌は「菩薩のごとく」と言っているので、現実には仏像と対峙しているのではない。「をとめの手」を、幽かな光が染めているのを見ているだけなのだ。しかし、手だけではなくて、乙女を仏像として見ていると勝手に想像したくなる。手に添う「白きひかり」は、エロスを感じさせるのに充分だ。

外恚ェ

2022年1月の歌

冬螢ふゆぼたる飼ふ沼までは(俺たちだ)
ほそいあぶない橋をわたつて

岡井隆 『神の仕事場』

この歌集『神の仕事場』でも様々な表現に挑んでいる。「冬螢飼ふ沼までは」は、意表をつく表現である。言葉の意味を追わずイメージをたたせて、いきなり冬の冷たさから詩的な沼へ、混沌とした世界に誘い込まれる。「沼」とは、歌や仕事や家族にまで広げて捉えることができて、下の句の「ほそいあぶない橋をわたって」とあるように、危うく遂げてきたことが伝わる。第三句に( )が入っていて「俺たちだ」と口語で強く言い切り謎めいているが、これは岡井自身の肉声で、自分たちのことを告げているのだろう。言葉の表現の可能性を広げるために先端の表現をもとめて、そして自らの内面を探求してきた岡井らしい歌である。

中川佐和子

2021年12月の歌

みぎひだりみぎひだりせる大振子
歳晩の空に見えゐしが消ゆ

河野裕子 『体力』

慌しく時間がすぎていく「歳晩」のふとした空白の時間を詠んでいる。歌のスケールの大きさのその奥に悲哀をただよわせているのが魅力。大きな振り子が、「歳晩」の空にゆったりと揺れる、それは河野の独自な感受である。「みぎひだりみぎひだり」とひらがなで表され、柔らかな息づかいまで伝わる。そして、いのちを刻むかのようなこの揺れは、これでいいのかという迷いを持っていることを感じさせる。『体力』は一九九七年の刊行で、河野が時間と体力を強く意識して生きた、四十代の半ばから後半の作品を収録。結句の「見えゐしが消ゆ」と、大振子が消えたことを加えているのは、生きてゆく上での茫漠とした不安感がふっきれたのだろう。

中川佐和子

2021年11月の歌

愛國の何か知らねど
霜月のきりぎりすわれに掌(て)を合せをり

恂{邦雄 『獻身』

11月、老いたキリギリスが私に向かって前肢を合わせ、拝む格好をしている。この合掌のしぐさには、見覚えがないだろうか。これは、かつて神社や宮城で戦勝を祈願した日本人の姿ではなかったか。この歌の作られたのは、第二次大戦が終わってから半世紀近く経った頃。秋深きこの日、何の因果か、前衛歌人のこの私が祈りを捧げられる立場になっている。かつて軍に徴用され、「愛國」をたたき込まれた自分だが、本当のところ、「愛國」の何であるかは知るところがないというのに。主客が逆転し、拝まれてしまった戸惑いの中に、あやうい平成日本の姿を浮かび上がらせた。独特の社会詠といえよう。

坂井修一

2021年10月の歌

ポストモダンといふは木犀の香りにて
何かさはやかに忘れしむるを

馬場あき子 『阿古父』

ポストモダンは近代からの脱却をめざした思想運動。日本では1980年代に盛り上がりを見せた。そんなポストモダンに、馬場あき子は(金木犀ではなく)木犀の香りを嗅ぐという。世はバブルの時代、消費文化のまっただ中にあった。爽やかな芳香に包まれるように、人々は近現代、特に戦中・戦後の苦悩や葛藤を忘れて、今ここにある豊かさを楽しんでいる。馬場はそんな世相に半ば同情しつつも強い留保を示す。自分の半生の結論はここにはないのだ。骨太の問い返しの中で、彫り深い痛みの記憶を取り返しつつ、静かに世相を見守るしかない。そんな思いをこめた一首。

坂井修一

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