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2024年11月の歌
行行重行行ゆきゆきてかさねてゆきゆく ワルシャワに
十一月の初雪が降る

睦月都 『Dance with the invisibles』

作者がワルシャワ在住の折の歌。日本よりも緯度が高いので寒さが身に沁みる。十一月の初雪は、遠い地に来たなあ、という思いをもたらしたのかもしれない。この歌の斬新さは、上句に文選(六世紀前半、中国の梁代に編まれた詩文・散文集)の五言古詩の冒頭の一節を置いたことである。「行行重行行」のあとに「与君生別離(君と生きながら別離す)」と続き、生き別れになった人への慕情が連綿と綴られてゆく。この古詩には北方生まれのの馬や南方生まれのえつの鳥も登場し、大陸的なスケールの大きさを感じさせる。日本、ワルシャワ、中国を「十一月の初雪」の情感で包み込んだ掲出歌からも、清冽な空間の広がりが伝わる。

栗木京子

2024年10月の歌
草紅葉のくれなゐ錆びて十月の
終りはとほきしろがねの岸

大辻󠄀隆弘 『橡と石垣』

木々の紅葉ではなく、視点を低くして草の紅葉に目をとめたことが繊細である。紅に染まった葉が、次第に乾いた渋い色合いへと変わる。「くれなゐ褪せて」や「くれなゐ失せて」でなく「くれなゐ錆びて」に空気の質感が託されている。十月がもう終わろうとする日々。翌月に入って七日もすれば立冬である。秋から冬へと移る季節を「とほきしろがねの岸」と捉えたことで、歌の場面に静かな流れが生まれた。「十月の終りは」の助詞「は」が、じつに巧みである。さらに「くれなゐ」と「しろがね」の二つの色彩が一首の中に共存してほのかに響き合い、抒情性豊かな一首になった。

栗木京子

2024年9月の歌
文学を負う錯覚も快美なる
九月の雨の街路を行けば

藤原龍一郎 『ジャダ』

「九月」というと思い浮かぶのは太田裕美の「九月の雨」。すこし舌足らずな可憐な歌声で「September rain」と英語を連呼していた。この強い印象のせいで、九月といえば何をおいても雨なのだが、九月の雨の短歌ならば掲歌がかっこいい。藤原の歌は漢文調の引き締まった韻律に特徴があるが、この歌もそう。文学を負うという錯覚、とはいうものの、この歌の主人公はまんざら錯覚でもない自負をもって酔いしれている。傘はさしていたろうか。いや、さしていてほしくない。文学の徒は雨にうたれながら抒情するのが似合う。福島泰樹にも「汝が窓の灯りも消えてわがバイク九月の雨にびしょ濡れならん」という歌がある。九月の雨は、様々なメロディーを聴かせてくれる。

斉藤光悦

2024年8月の歌
怒りのさく裂 花と閃く ひりひりの
真夏の夜の空の興奮だ

加藤克巳 『宇宙塵』

和の諧調、しらべがまったく感じられない、歌らしくない歌だと思う。けれども、87578と区切って読むと初句の音数がやや多いくらいで、そういう意味では定型。初句「怒りの炸裂」は怒りにまかせて加速度をつけて一気に読めば、五音をゆっくり読むのと同じ時間帯で読み切れる。つまり、この歌は作者が定型をしならせてその可能性を広げようとしている歌なのだ。なんだか少年っぽい語り口も、興奮した心の高ぶりと響き合っていて、逆に言えばここに、たり、けり、のような文語はふさわしくない。「怒り」は時代という大きなものへの怒りか、個人的なものか、どちらにとってもよいだろう。空気の震えが伝わってくるような音韻を感じ取りたい。

斉藤光悦

2024年7月の歌
海はいま凪のときなりあやかしの
ゐるかのごとくひとところ照る

外塚喬 『鳴禽』

風が止んで静まり返った刻に、心を解放して大いなる海と向き合うわれ。不穏な気配を感じ取ったのである。海面は波が静かでどこまでも穏やかであるが、海上に現れる妖怪である「あやかし」が潜んでいるかのごとく不気味なまでに照り映えている「ひとところ」があったのだ。海原や光の色合い、波のかすかな音、潮の香、すべてが皮膚に纏わりついてくるように危うく思えてくる。波瀾の予感なのかとも思うが実際には何事も起こらない。「いま」という時が過ぎれば、眼前の海は異なる印象を齎すのである。幻想とうつつを行き交いながら、いつの間にか読み手は歌の言葉の運びに翻弄されていく感覚に陥る。滋味深い輝きを放つ景として読後長く心に留まる。

寺島博子

2024年6月の歌
洗うのがもったいないとながめたり
裾につきたる青き花の汁

前田康子 『おかえり、いってらっしゃい』

三句「ながめたり」によって一呼吸おき下の句へと読者は導かれていく。忙しい日日の中に時間をつくり野に草花を見に行ったのだろうか。青い花を目にしたのだ。かがみ込んで花を愛で、ゆったりと過ごしたのであろう。ふと見ると裾に花の汁が付いている。少しばかりの汁ではあるが、命が宿っていると感じたのではないか。それは可憐な花をいとおしみながら触れ合った時間、心に潤いを齎した時間の豊かさを静かに思うことでもある。三句には作者のたゆたいがある。洗わなければならないと分かっていても、色が落ちれば花を目にしたことさえ幻となってしまうような気がして惜しい。体言止めの結句に余情が籠もっている。「青」に惹かれる心が窺われる。

寺島博子

2024年5月の歌
虫と鰐は玄関から這入つて来るといふ
玄関を二十四時にとざしぬ

酒井佑子 『空よ』

一首全体はほとんど無表情につくられているが、何かしらふつふつとした笑いがこみ上げてくる。三句切れか切れのない歌かにわかには判断がつかず、どちらかというと切れのない歌として読むと、「玄関」を修飾しているのは「虫と鰐は玄関から這入つて来るといふ」になる。そんな「玄関」の修飾は他に見たことがない。擬人法が使われているわけではないのに、この歌の虫も鰐もかすかながら服を着ているようなイメージが乗ってくるのも楽しく、その割に「虫と鰐」の把握が大雑把なのも面白い。虫も鰐も、本当に家に這入ってこられたら困る生き物だけれど、真夜中のふとした思い浮かびが、おそらくはそのままのかたちで壊されることなく一首に掬い取られている。

内山晶太

2024年4月の歌
あなたから香る桜をいつまでも
忘れずに済む脳を下さい

千種創一 『砂丘律』

まっすぐな感情が含まれながら、修辞による迂回がその感情の速度を落としている。「あなた」をではなく「あなたから香る桜」を。香りという色やかたちがなく、自分自身のなかでしか確かめられないもののはかなさは、逆に言えば自分だけが確かめられる唯一のものにもなりうる。忘れたくないものはあなたそのものだけれども、そのあなたは「わたし」との関係性のなかでのみひらいた一瞬のまぼろしだったのだろう。そしてこの歌では関係性のなかのあなたが永続しないものであることを熟知している。熟知しているから、関係性を続けられる心を求めるより先に回って、すべてが終わったあと、ずっと忘れない脳を求める。その精神の襞がこまやかに彫られている。

内山晶太

2024年3月の歌
スカートの影のなかなる階段を
ひそやかな音たてて降りゆく

大滝和子 『人類のヴァイオリン』

不思議な歌である。「スカートの影のなかなる階段」という表現が読者の遠近感を狂わせるのだろうか、イメージの中でスカートがみるみる大きく膨らんで、その影が長い階段の上から下までをすっぽり覆い尽くしてしまう。自分が履いているはずのスカートの下をくだっているような気さえしてくる。スカートを着けた自らの影を見下ろすとき、女性は、日々「女性」として生活していることを否応なく自覚させられる。足元は、ひだに邪魔されてよく見えない。しかし、そこを降りるとき小さな音を立てているのは自分自身の足である。大滝和子は、女/男の区分にさらりと異議を申し立てるようなところがあって、この歌にもその特徴が表れていると思う。

石川美南

2024年2月の歌
妙にあかるきガラスのむかう
砂丘よりラクダなど来てゐるやもしれぬ

永井陽子 『モーツァルトの電話帳』

この歌とは二度出会っている。一度目は、短歌を五十音順に並べた『モーツァルトの電話帳』。「ま」行のページで見つけたとき、空想の軽やかさ、仄かな憧れの気配に、一瞬で好きになった。多用されるア段の晴れやかな響きにも惹かれた。二度目は、遺歌集『小さなヴァイオリンが欲しくて』に収められた初出バージョン。実はこの歌は、小池光との往復書簡形式で作られた連作中にあり(平成7年2月6日分)、小池が前年に砂丘で眼鏡を拾ったエピソードを受けて出てくるのだ。一首に漂う明るさは、和やかな手紙の往復によって醸成されたのかもしれない。永井陽子は母を失ったばかりだった。ガラスのこちら側は、もしかしたら仄暗かったのだろうか。

石川美南

2024年1月の歌
地下街の夜のめくるめきかがやきを
もとほりて来てせむすべ知らず

成瀬有 『流されスワン』

第四句の「もとほりて」は、「徘徊して」の意。全体を訳せば、「地下街の夜は目が眩むほど輝いており、その輝きの中をさまよい歩いて来た自分はなす術もない。」くらいとなろう。夜のネオン街でないところが、この歌の眼目か。天井の低い人工的な空間は、照明で照らされてはいるものの、本来は漆黒の闇の中である。その「かがやき」が、自分の追い求めている「かがやき」とは本質的に異なることを知るからこそ、結句の諦念があるのだろう。成瀬の歌風の特徴である、社会から我が身を少し引くような孤独感がよく出ている一首である。それにしても、「もとほる」の古語が、いかにも現代の地下街を徘徊するのにふさわしく、その言葉の選び方には唸らされる。

小塩卓哉

2023年12月の歌
上の物取らむと脚立に登るとき
天涯孤独の感じはするも

佐藤通雅 『岸辺』

短い梯子を八の字に合わせ、その上に板を取り付けたのが脚立だが、いざ登るとなると誰かに押さえていてもらわないと不安である。電球を換えたり、戸棚の中のものを取ったりする時は、ひとりのことが多い。えいやあと脚立の上部に登り跨がるのだが、不安定でその心細さは、齢を重ねるほどに大きくなるだろう。「天涯孤独」とは身よりもない一人暮らしのことだが、逆に自分がそんな境遇になった時を想像するなら、たった一人で脚立の上に置かれた状況は、まさにぴったりである。結句は「感じがするよな」くらいの意か。しみじみと納得をしているのである。脚立に登るたびに作者はこんな思いに浸っているのだろう。降りればすぐ忘れてしまうが。

小塩卓哉

2023年11月の歌
野仏に捧げられたる小菊あり
祈りとはただ匿名アノニマスにて

高木佳子 『玄牝』

晩秋の澄んだ空気の中、静かに置かれた野仏は、風景に溶け込んでいる。ここにある年月、数えきれないほどの人の祈りをその身に受け止めてきたのだろう。そんな野仏に捧げられた一輪の小菊に感じる懐かしさは、その祈りの日常性にも通じる。「祈りとはただ匿名にて」に込められた思いは強い。匿名であるから、その祈りは時間のつらなりの中に溶け込んでいくのだ。特別ではない、日々の平穏や日常の幸せを祈ること。この不穏な時代、野仏に手折った小菊を供えて祈るというささやかな行為すらかなわない日がいつ来てもおかしくない。世界中あらゆる場所で今、「匿名の祈り」を、「小菊」を捧げる人たちがいる。その祈りを受け止めるのは誰なのだろうか。

鶴田伊津

2023年10月の歌
月射せばすすきみみづく薄光り
ほほゑみのみとなりゆく世界

小中英之 『わがからんどりえ』

一切の音を感じさせない澄み切った世界。世界と自分の境界がなくなって一体化してしまったような感覚。この歌を読むといつもそんな風に感じる。怖いものなど何もない全き世界。「ほほゑみのみとなりゆく世界」では肉体の生々しさを脱ぎ捨てて、魂のみが触れ合うのだろうか。「すすきみみづく」は、東京の雑司ヶ谷鬼子母神で授与される郷土玩具で、三分咲きのすすきの穂でつくられている安産・子育て・健康のお守り。ふっくらとしていてとてもかわいい。月の光に照らされた「すすきみみづく」はそれ自身も発光しながら、私達を死と生のあわいへと誘ってゆく。小中英之の歌には常に死の気配が漂っているが、そこには諦念も絶望もない。それは一瞬かもしれない生の光の方へ目を向けているからだ。

鶴田伊津

2023年9月の歌
風景は記憶に還り死者たちは
待ち針として地に眠りおり

東直子 『青卵』

大切な家族を喪ったとき、その人の笑顔が――そして、その笑顔を伴ったすべての風景が――もはや記憶の中にしかないことを私たちは悲しむ。けれど、考えてみれば、離れて暮らしていた家族の場合、それまでも相手の姿を毎日目にしていたわけではない。その人のいる庭や畑や海や野山の風景は、もともと私たち一人一人の心の中にこそあった。死によって記憶に「還る」のである。思い出を反芻しつつ歩く秋の霊園。仏教では、春分と秋分にはあの世とこの世の距離が近くなると考えられているという。敷地に並ぶ多数の墓石は似ているようでいて、一つとして同じものはない。縫うべき位置を示す待ち針のように、私たち自身のいつか眠る場所が家族の墓碑によって正確に示されている。

中沢直人

写真:前田康子

2023年8月の歌
駅頭に日傘の黒をひらきゆく
むかしの鳥の翼のように

中川佐和子 『霧笛橋』

首掛け式冷却ファンや接触冷感素材の衣類など、新しい暑さ対策グッズが広がってきた今も、日傘は昔とあまり変わっていないように見える。古代ギリシャの円形劇場でも女性たちは日傘を使っていたという。直射日光を遮るローテクノロジーの意外な頼もしさ。下句の美しい比喩に使い慣れた日傘への愛着がにじむ。「むかしの鳥」は「鵲」を指すと読むことももちろんできるが、近年の研究では、始祖鳥の羽は黒かったことが化石に残る色素の分析から判明しているらしい。今よりはるかに高温多湿だったといわれるジュラ紀の地球。そこに登場した鳥類の祖先に思いを馳せつつ、作者は駅を出て歩き出したのかもしれない。黒い翼に守られながら。

中沢直人

2023年7月の歌
ひるがほの花の小円こゑんつへ
光をこぼす七月のらい

高野公彦 『天平の水煙』

「小円」は、ありそうな単語の組み合わせだけれど、実はあまり使われない言葉だ。そういう隠れた名語(というのか)が一首を引き締める。また、数詞も歌をシャープにするようだ。夏は雷の多い季節。ここでは恐ろしげな雷鳴よりも、その直前の稲光の方に注目している。(ライという軽い音が可愛げでもある。)不穏な雰囲気の大空にひとたび、ふたたび瞬く鋭い光。それは、地上でけなげに咲く昼顔たちに、そっと挨拶を送るような、注意を促すような、親しげな印象でもある。ヒルガオは夕方にはしぼむ。稲妻はそのわずかな命の長さをいとおしむような、ひそかなコミュニケーションを楽しんでいるのかもしれない。

大松達知

2023年6月の歌
佇ちながら木木は狂えり六月の
汝れを見送るわが阿修羅像

馬場あき子 『飛花抄』

「木木」は実景だろう。無言で立つ樹木らの中に狂気が含まれると直感したのだ。作者自身にもなにかしら共鳴する感情があったのかもしれない。そんな不穏な空気感の中にあって、大切な誰かを見送る。新緑がすこしずつ色濃くなり、湿度が増してくる六月。なにかしらむらむらとする感情が、梅雨どきの雲のように作者の内面を覆っている。それを「わが(裡に秘めた)阿修羅像」と言ったようにも思える。阿修羅の三つの顔は像によって様々で、一般的には憤怒の表情だが、優しい少年風のものもある。ともかく、はげしく主張してくる個々の言葉を押さえ込むような一首の勢いに圧倒される歌である。

大松達知

2023年5月の歌
リビア産新鮮魚介ブイヤベース
〜難民船の破片を添えて〜

佐佐木定綱 『月を食う』

レストランでメニューを開くと「リビア産新鮮魚介のブイヤベース」が目に飛び込む。たちまちサフランの香りが鼻をくすぐる心地になる。しかしそこには「難民船の破片添え」の文字。アフリカやアジアの各地からリビアに逃れてきた人々は、難民認定もない、不当な扱いから更に逃れ、決死の覚悟でヨーロッパを目指し小船に乗る。赤ん坊も幼い子供も、隙間なく乗り込んだ屋根もない小さな船が地中海を漂う。難破した船は数知れないだろう。
「リビア産新鮮魚介ブイヤベース」という洒落た一皿が孕む人類の歪。ワインを飲みながら舌鼓を打つか、難民へと思いを馳せるか。魚介の一つ一つがふと難民の顔に見えてくる。

春日いづみ

2023年4月の歌
芝桜をカラス飛びたてり ややありて
二本の黒い足も飛び立つ

小池光 『滴滴集』

ピンク一面の芝桜、そこを飛び立った一羽のカラス。色彩の鮮やかな情景が浮かぶ。次のフレーズでは、まるでカラスの足が、自分の身を追いかけるように描かれている。一字分の空白の後、「ややありて」と時間のズレがあるのだ。「二本の黒い足」は芝桜の上で春の陽を浴びて微睡んでいたとでもいうのだろうか。二句の「飛びたてり」に対し結句は「飛び立つ」と過去と現在、文語と口語が使い分けられている。対象への眼差しと意識のズレといった人間の不可思議へも思いが及ぶ。歌集ではこの歌の次に「駐車場のアスファルト歩む一体のカラスに鳥の概念はなく」が並び、カラスを介して哲学的な思考を促されている心地になる。

春日いづみ

2023年3月の歌
月させば梅樹は黒きひびわれと
なりてくひこむものか空間に

森岡貞香 『白蛾』

「梅樹」は「ばいじゅ」と読む。やわらかな「うめ」とは違い、硬い物質感のある言葉である。さらにこの歌の下の句には、「なりてくひこむ/ものか・くうかんに」と、句割れや倒置が用いられ、ぎしぎしとした独特のリズムを持っている。「黒きひびわれ」や「くひこむ」といった把握にも、空間をねじ曲げようとするような、暗い力が感じられる。月の夜の梅の樹は、静かに立っているが、その内部には、なまなまとした存在感が秘められている。この歌を読むと、樹のほうから人間に触れてくるような奇妙な感覚が伝わってくる。風景や物体に対する畏怖のようなものを、森岡貞香は生涯を通して表現し続けた。

吉川宏志

写真:前田康子

2023年2月の歌
書き終へしばかりの熱のある指が
渦のクリップ摑みなづみつ

篠弘 『日日炎炎』

手書きで原稿を書いていたのだろう。ワープロを使うのとは違い、指は熱っぽくなり、疲労も残る。まさに体力を使って書くという感覚が、手書きの時代にはあった。クリップの一つ一つが「渦」の形をしている、と読んでもいいし、たくさんのクリップが渦状になっていると取ってもいい。「摑みなづみつ」は、「つかみにくくなった」という意味。指に少し痺れる感じがあったのだろう。クリップの種類はいろいろあるが、やはり薄くて小さいものが、この歌には合っている。書くことへの執念や熱情。そして書き終えた後の喜びが伝わってくる歌である。『現代短歌史』T〜Vなどの大著を執筆した篠弘は、昨年12月に亡くなった。

吉川宏志

写真:前田康子

2023年1月の歌
水鳥の羽ふくらます太陽の
仕事みてをり大寒のけふ

小島ゆかり 『六六魚』

寒い季節は日の光がうれしい。人間も動物も植物も、家々の屋根やベランダも短い日照時間を喜んでいるように見える。鳥が冬にふくらんで見えるのは羽毛に空気をためて寒さから身を守っているからだという。外側からは見えない細かい羽毛がたくさん広がって包んでいるのだ。水鳥も冬の空気と太陽を取り入れて生きている。「太陽の仕事」という言葉に大きな信頼感がある。この世のあらゆるものを慈しむ作者の広くあたたかい心から生まれた言葉だ。大寒の厳しさもこのように超えて生きてゆくものたち。

梅内美華子

2022年12月の歌
拾ひ来し松笠リースに飾りつつ
イエスも産声あげしを思ふ

春日いづみ 『地球見』

クリスマスリースを飾る家が増え12月の光景の一つになった。樅、柊、松笠、姫リンゴなどの素材を輪に飾るもので、神の永遠の愛、豊穣祈願、魔除けの意味をもつという。キリスト教を信仰する作者にとってリースは神聖かつ身近なものである。拾って来た松笠を加える手からもそれがうかがわれる。降誕祭が近づくのを「飾りつつ」となだらかに続けて表しているが下の句を読んであっと驚く。「産声」によって赤ん坊イエスの命が思いがけなく立ち上がるのだ。神の子か人間かという古来の問いを飛び越えた、命に対する作者の確信がここにはある。誰もが小さく守られるべき命から始まっているという思いが「産声」を引き寄せた。

梅内美華子

2022年11月の歌
草原をいてやまない風の指
あなたが行けと言うなら行こう

服部真里子 『行け広野へと』

「エモい短歌、ありますか?」
よく生徒からリクエストされる。僕が毎朝、勤務校の入口の黒板に現代短歌を書いているのを、熱心に読んでくれる子がいるのだ。「ありますか?」と言われ、「ありません」とは答えたくない。これでも歌人の端くれだ!
歌集を何冊も手にとり、翌日、黒板にこの歌を書いた。
リクエストしてくれた子は「エモい!」と喜んでくれた。櫛で髪をとかすように、草花を梳いてゆく、大いなる「風の指」。運命的な何かを感じさせる「あなた」の存在感。
秋風を受け、何かに導かれるように一歩踏みだすときに口ずさみたい歌だ。

千葉聡

写真:前田康子

2022年10月の歌
書くことで落ちこんだなら書くことで
立ちなおるしかないんじゃないか?

枡野浩一 『ますの。』

僕が短歌を詠み始めたころ、すでに枡野浩一さんは雑誌によく載る有名人だった。僕が第一歌集を出したとき、もう枡野さんの本は書店に平積みされていた。同い年の歌人が、自分のずっと先を歩いている。うらやましくて仕方なかった。その後、枡野さんはテレビや映画に出て、芸人にもなり、今は絵本も書いている。枡野さんの短歌は、国語の教科書にも載っている。
今年、『毎日のように手紙は来るけれどあなた以外の人からである 枡野浩一全短歌集』が出版された。うらやましさは消えない。だから、僕も、もっと表現を磨いて、書き続けるしかない!
枡野さんの本は、前に進む力をくれる。

千葉聡

写真:前田康子

2022年9月の歌
月の面に影を遺して秋の海の
銀波見に来し兎かわれは

尾崎左永子 『夏至前後』

作者は鎌倉市在住。観光シーズンを終えいつもの静かさを取り戻した海に中秋の月がのぼる。古くから名月と讃えられる、大きくて明るい特別な月だ。寄せ返す波に月光が映り銀にさざめく。懐かしいような、切ないような、呼ばれているような美しさ。こんなに慕わしいなんて、もしかしたら自分は月面に影だけを残して地球にやってきた兎なのではないだろうか。そんな想像がふっと湧いてきた。
羽衣伝説のような、かぐや姫のような、本当の自分がどこかにいるような気分。秋とはそんな抒情的な季節であろう。今年の中秋の名月は9月10日土曜日である。

富田睦子

2022年8月の歌
みどりごは泣きつつ目ざむひえびえと
北半球にあさがほひらき

高野公彦 『汽水の光』

夜を徹して書き物をしていた若い父親は嬰児の泣き声にハッとして朝が来ていたことを知った。現実の時間が、濃い青の朝顔がひらくように目覚めはじめる。
「北半球に」という大きな把握は日常から鮮やかに飛躍し、朝顔の花のしっとりとした質感と嬰児のやわらかい皮膚が重なる。想像の世界と作者の実存が不思議に溶けあっている。
「みどりご」は実際の作者の子どもだろうか。開いた窓から聞こえてきた声だったのかもしれないし、もしかしたら静かだった夜が明け、街が音を立てて活動し始めることの比喩なのかもしれない。

富田睦子

写真:前田康子

2022年7月の歌
椿の老樹葉も花もなく立つかたえ
過ぐるとき長き髪がさむがる

王紅花 『夏暦』

『夏暦』は王紅花の第一歌集。1982 年に雁書館から出版された。初出は、確か同人誌「アルカディア」であったと記憶する。歌集名はその三年前に創刊した王紅花の個人誌「夏暦」による。
寒いのは私ではない「長き髪がさむがる」のだ。髪はそれ自体ひとつの身体
でもあるかのような意思をもって描かれる。落葉した椿の老樹とはすでに異界のものなのではないか。風がふくいや、これは風ではないとふいに思う。集中には「男その髪やわらかく猫のごと抱かれてわが胸には男」があるので、長い髪の主は男かとも思ったが、老樹のめぐりを流れる霊性おびた冷気に寒がる身体感覚は、やはり〈われ〉のものでなければならない。

加藤英彦

写真:前田康子

2022年6月の歌
少女らが枯葉や石にもどりたる
あけがた窓をとざし灯を消し

松平修文 『水村すいそん

その朝、少女たちは森のなかへと帰っていった。湿地をおおう枯葉や沼のほとりの石にもどっていった。朝まで、彼女たちとなにを話していたのだろう。松平修文の描く少女はときに枯れ枝であったり、冬の川であったり、根雪をとかす雨であったりする。それは自然の聖性の化身であり、いわば表情をもたない無人称の存在である。そこに外界の人工都市とはげしく対立する松平がいる。彼女たちが去ったあと、〈私〉は窓をとざし灯を消して眠りにつくのだ。
2017年11月23日未明、苦しい闘病の末に松平は妻王紅花の腕のなかで静かに息を引きとった。この一首の幻想的な光景をわたしは今も愛している。

加藤英彦

2022年5月の歌
めくるめく速さに回る風車かざぐるま
四つのつののたちまち見えず

大西民子 『印度の果実』

かざぐるま、懐かしくノスタルジックな風物である。鯉幟の上についている矢車、これも風車のひとつだが、ここでは手づくりの小さな風車のイメージだ。子どもが懸命に息を吹きかけても回らない。そんなとき急に風が吹いて勢いよく回り始めることがある。そうなると風車の羽根がたちまち見えなくなる。この歌では羽根の先を角(つの)と言っている。あまりに激しい動きでは、刺々(とげとげ)しいものでも見えにくくなる。激しいものは棘を隠してしまうのか。おっとりとしていた大西民子だが、内心は激しい人だった。あまりにも早く回転しすぎて隠れてしまったものを持っていたのかもしれない。

沖ななも

2022年4月の歌
豆の莢剥くは晩春のたのしみの一つなりにき
母ありしころ

北沢郁子 『満月』

そろそろ上着がいらなくなるころ、楽しみにしていたのは豆ごはん。母親が縁側かなにかで莢から豆を取り出しているのを見ると、ああ今日は豆ごはんだと思ったものだ。とうぜんお手伝いと称して莢剥きに加わる。莢から豆が弾け出てくるたびにわくわくした。豆の緑色は、復活の季節の到来を思わせる、エネルギーに満ちた輝きをしていた。莢の量に比べて、嵩の減った豆を不思議な気持ちで眺めたこともあった。「母ありしころ」、そう母が亡くなってしまうと豆ごはんなんか炊かない。あれは母親が子どものために炊くものだったのだ。今は豆ごはんを炊く楽しみもない。

沖ななも

2022年3月の歌
がけのひびをすら射る夕茜ゆふあかね
しゆんの時惜しわがいのち惜し

木俣修 『呼べは谺』

五十五歳の木俣修が立山の弥陀ヶ原を訪れたのは、1961(昭和36)年10月。すでに冬の気配が押し迫っていた。寝る暇も惜しんで仕事に没頭していた頃である。弥陀ヶ原への旅は、気の置けない仲間との旅であり、ひと時の休息を得ることができたのだろう。夕暮れの迫った目の前に、荒涼として広がる風景。「崩えがけ」は、修にとっては抗うものの対象に見えたのかも知れない。上の句からは緊迫した状況を彷彿させる。四句五句のリフレインは、心の内を隠すことなく表白している。「しゆんの時」をも惜しまずに生きようとする積極的な姿勢が見られる。さらに「わがいのち惜し」には、生を惜しむとともに、老境に向かう覚悟が案じされていると言えよう。

外恚ェ

2022年2月の歌
をとめの手白きひかりの添ふみれば
指長らかに菩薩のごとく

玉城徹 『香貫』

仏像と対峙していると、いつの間にか心が浄められる。憤怒の相の仏像であっても、同じことが言えるだろう。さらに仏像からは、不思議な妖気と色気を感じることがある。弥勒菩薩などはその最たるものだ。かつて、大学生が弥勒菩薩の余りの美しさから像に触れて、右手の薬指を折ってしまった事件を記憶している人もいるだろう。
掲出歌は「菩薩のごとく」と言っているので、現実には仏像と対峙しているのではない。「をとめの手」を、幽かな光が染めているのを見ているだけなのだ。しかし、手だけではなくて、乙女を仏像として見ていると勝手に想像したくなる。手に添う「白きひかり」は、エロスを感じさせるのに充分だ。

外恚ェ

2022年1月の歌

冬螢ふゆぼたる飼ふ沼までは(俺たちだ)
ほそいあぶない橋をわたつて

岡井隆 『神の仕事場』

この歌集『神の仕事場』でも様々な表現に挑んでいる。「冬螢飼ふ沼までは」は、意表をつく表現である。言葉の意味を追わずイメージをたたせて、いきなり冬の冷たさから詩的な沼へ、混沌とした世界に誘い込まれる。「沼」とは、歌や仕事や家族にまで広げて捉えることができて、下の句の「ほそいあぶない橋をわたって」とあるように、危うく遂げてきたことが伝わる。第三句に( )が入っていて「俺たちだ」と口語で強く言い切り謎めいているが、これは岡井自身の肉声で、自分たちのことを告げているのだろう。言葉の表現の可能性を広げるために先端の表現をもとめて、そして自らの内面を探求してきた岡井らしい歌である。

中川佐和子

2021年12月の歌

みぎひだりみぎひだりせる大振子
歳晩の空に見えゐしが消ゆ

河野裕子 『体力』

慌しく時間がすぎていく「歳晩」のふとした空白の時間を詠んでいる。歌のスケールの大きさのその奥に悲哀をただよわせているのが魅力。大きな振り子が、「歳晩」の空にゆったりと揺れる、それは河野の独自な感受である。「みぎひだりみぎひだり」とひらがなで表され、柔らかな息づかいまで伝わる。そして、いのちを刻むかのようなこの揺れは、これでいいのかという迷いを持っていることを感じさせる。『体力』は一九九七年の刊行で、河野が時間と体力を強く意識して生きた、四十代の半ばから後半の作品を収録。結句の「見えゐしが消ゆ」と、大振子が消えたことを加えているのは、生きてゆく上での茫漠とした不安感がふっきれたのだろう。

中川佐和子

2021年11月の歌

愛國の何か知らねど
霜月のきりぎりすわれに掌(て)を合せをり

恂{邦雄 『獻身』

11月、老いたキリギリスが私に向かって前肢を合わせ、拝む格好をしている。この合掌のしぐさには、見覚えがないだろうか。これは、かつて神社や宮城で戦勝を祈願した日本人の姿ではなかったか。この歌の作られたのは、第二次大戦が終わってから半世紀近く経った頃。秋深きこの日、何の因果か、前衛歌人のこの私が祈りを捧げられる立場になっている。かつて軍に徴用され、「愛國」をたたき込まれた自分だが、本当のところ、「愛國」の何であるかは知るところがないというのに。主客が逆転し、拝まれてしまった戸惑いの中に、あやうい平成日本の姿を浮かび上がらせた。独特の社会詠といえよう。

坂井修一

2021年10月の歌

ポストモダンといふは木犀の香りにて
何かさはやかに忘れしむるを

馬場あき子 『阿古父』

ポストモダンは近代からの脱却をめざした思想運動。日本では1980年代に盛り上がりを見せた。そんなポストモダンに、馬場あき子は(金木犀ではなく)木犀の香りを嗅ぐという。世はバブルの時代、消費文化のまっただ中にあった。爽やかな芳香に包まれるように、人々は近現代、特に戦中・戦後の苦悩や葛藤を忘れて、今ここにある豊かさを楽しんでいる。馬場はそんな世相に半ば同情しつつも強い留保を示す。自分の半生の結論はここにはないのだ。骨太の問い返しの中で、彫り深い痛みの記憶を取り返しつつ、静かに世相を見守るしかない。そんな思いをこめた一首。

坂井修一

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