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2022年9月の歌
月の面に影を遺して秋の海の
銀波見に来し兎かわれは

尾崎左永子 『夏至前後』

作者は鎌倉市在住。観光シーズンを終えいつもの静かさを取り戻した海に中秋の月がのぼる。古くから名月と讃えられる、大きくて明るい特別な月だ。寄せ返す波に月光が映り銀にさざめく。懐かしいような、切ないような、呼ばれているような美しさ。こんなに慕わしいなんて、もしかしたら自分は月面に影だけを残して地球にやってきた兎なのではないだろうか。そんな想像がふっと湧いてきた。
羽衣伝説のような、かぐや姫のような、本当の自分がどこかにいるような気分。秋とはそんな抒情的な季節であろう。今年の中秋の名月は9月10日土曜日である。

富田睦子

2022年8月の歌
みどりごは泣きつつ目ざむひえびえと
北半球にあさがほひらき

高野公彦 『汽水の光』

夜を徹して書き物をしていた若い父親は嬰児の泣き声にハッとして朝が来ていたことを知った。現実の時間が、濃い青の朝顔がひらくように目覚めはじめる。
「北半球に」という大きな把握は日常から鮮やかに飛躍し、朝顔の花のしっとりとした質感と嬰児のやわらかい皮膚が重なる。想像の世界と作者の実存が不思議に溶けあっている。
「みどりご」は実際の作者の子どもだろうか。開いた窓から聞こえてきた声だったのかもしれないし、もしかしたら静かだった夜が明け、街が音を立てて活動し始めることの比喩なのかもしれない。

富田睦子

写真:前田康子

2022年7月の歌
椿の老樹葉も花もなく立つかたえ
過ぐるとき長き髪がさむがる

王紅花 『夏暦』

『夏暦』は王紅花の第一歌集。1982 年に雁書館から出版された。初出は、確か同人誌「アルカディア」であったと記憶する。歌集名はその三年前に創刊した王紅花の個人誌「夏暦」による。
寒いのは私ではない「長き髪がさむがる」のだ。髪はそれ自体ひとつの身体
でもあるかのような意思をもって描かれる。落葉した椿の老樹とはすでに異界のものなのではないか。風がふくいや、これは風ではないとふいに思う。集中には「男その髪やわらかく猫のごと抱かれてわが胸には男」があるので、長い髪の主は男かとも思ったが、老樹のめぐりを流れる霊性おびた冷気に寒がる身体感覚は、やはり〈われ〉のものでなければならない。

加藤英彦

写真:前田康子

2022年6月の歌
少女らが枯葉や石にもどりたる
あけがた窓をとざし灯を消し

松平修文 『水村すいそん

その朝、少女たちは森のなかへと帰っていった。湿地をおおう枯葉や沼のほとりの石にもどっていった。朝まで、彼女たちとなにを話していたのだろう。松平修文の描く少女はときに枯れ枝であったり、冬の川であったり、根雪をとかす雨であったりする。それは自然の聖性の化身であり、いわば表情をもたない無人称の存在である。そこに外界の人工都市とはげしく対立する松平がいる。彼女たちが去ったあと、〈私〉は窓をとざし灯を消して眠りにつくのだ。
2017年11月23日未明、苦しい闘病の末に松平は妻王紅花の腕のなかで静かに息を引きとった。この一首の幻想的な光景をわたしは今も愛している。

加藤英彦

2022年5月の歌
めくるめく速さに回る風車かざぐるま
四つのつののたちまち見えず

大西民子 『印度の果実』

かざぐるま、懐かしくノスタルジックな風物である。鯉幟の上についている矢車、これも風車のひとつだが、ここでは手づくりの小さな風車のイメージだ。子どもが懸命に息を吹きかけても回らない。そんなとき急に風が吹いて勢いよく回り始めることがある。そうなると風車の羽根がたちまち見えなくなる。この歌では羽根の先を角(つの)と言っている。あまりに激しい動きでは、刺々(とげとげ)しいものでも見えにくくなる。激しいものは棘を隠してしまうのか。おっとりとしていた大西民子だが、内心は激しい人だった。あまりにも早く回転しすぎて隠れてしまったものを持っていたのかもしれない。

沖ななも

2022年4月の歌
豆の莢剥くは晩春のたのしみの一つなりにき
母ありしころ

北沢郁子 『満月』

そろそろ上着がいらなくなるころ、楽しみにしていたのは豆ごはん。母親が縁側かなにかで莢から豆を取り出しているのを見ると、ああ今日は豆ごはんだと思ったものだ。とうぜんお手伝いと称して莢剥きに加わる。莢から豆が弾け出てくるたびにわくわくした。豆の緑色は、復活の季節の到来を思わせる、エネルギーに満ちた輝きをしていた。莢の量に比べて、嵩の減った豆を不思議な気持ちで眺めたこともあった。「母ありしころ」、そう母が亡くなってしまうと豆ごはんなんか炊かない。あれは母親が子どものために炊くものだったのだ。今は豆ごはんを炊く楽しみもない。

沖ななも

2022年3月の歌
がけのひびをすら射る夕茜ゆふあかね
しゆんの時惜しわがいのち惜し

木俣修 『呼べは谺』

五十五歳の木俣修が立山の弥陀ヶ原を訪れたのは、1961(昭和36)年10月。すでに冬の気配が押し迫っていた。寝る暇も惜しんで仕事に没頭していた頃である。弥陀ヶ原への旅は、気の置けない仲間との旅であり、ひと時の休息を得ることができたのだろう。夕暮れの迫った目の前に、荒涼として広がる風景。「崩えがけ」は、修にとっては抗うものの対象に見えたのかも知れない。上の句からは緊迫した状況を彷彿させる。四句五句のリフレインは、心の内を隠すことなく表白している。「しゆんの時」をも惜しまずに生きようとする積極的な姿勢が見られる。さらに「わがいのち惜し」には、生を惜しむとともに、老境に向かう覚悟が案じされていると言えよう。

外恚ェ

2022年2月の歌
をとめの手白きひかりの添ふみれば
指長らかに菩薩のごとく

玉城徹 『香貫』

仏像と対峙していると、いつの間にか心が浄められる。憤怒の相の仏像であっても、同じことが言えるだろう。さらに仏像からは、不思議な妖気と色気を感じることがある。弥勒菩薩などはその最たるものだ。かつて、大学生が弥勒菩薩の余りの美しさから像に触れて、右手の薬指を折ってしまった事件を記憶している人もいるだろう。
掲出歌は「菩薩のごとく」と言っているので、現実には仏像と対峙しているのではない。「をとめの手」を、幽かな光が染めているのを見ているだけなのだ。しかし、手だけではなくて、乙女を仏像として見ていると勝手に想像したくなる。手に添う「白きひかり」は、エロスを感じさせるのに充分だ。

外恚ェ

2022年1月の歌

冬螢ふゆぼたる飼ふ沼までは(俺たちだ)
ほそいあぶない橋をわたつて

岡井隆 『神の仕事場』

この歌集『神の仕事場』でも様々な表現に挑んでいる。「冬螢飼ふ沼までは」は、意表をつく表現である。言葉の意味を追わずイメージをたたせて、いきなり冬の冷たさから詩的な沼へ、混沌とした世界に誘い込まれる。「沼」とは、歌や仕事や家族にまで広げて捉えることができて、下の句の「ほそいあぶない橋をわたって」とあるように、危うく遂げてきたことが伝わる。第三句に( )が入っていて「俺たちだ」と口語で強く言い切り謎めいているが、これは岡井自身の肉声で、自分たちのことを告げているのだろう。言葉の表現の可能性を広げるために先端の表現をもとめて、そして自らの内面を探求してきた岡井らしい歌である。

中川佐和子

2021年12月の歌

みぎひだりみぎひだりせる大振子
歳晩の空に見えゐしが消ゆ

河野裕子 『体力』

慌しく時間がすぎていく「歳晩」のふとした空白の時間を詠んでいる。歌のスケールの大きさのその奥に悲哀をただよわせているのが魅力。大きな振り子が、「歳晩」の空にゆったりと揺れる、それは河野の独自な感受である。「みぎひだりみぎひだり」とひらがなで表され、柔らかな息づかいまで伝わる。そして、いのちを刻むかのようなこの揺れは、これでいいのかという迷いを持っていることを感じさせる。『体力』は一九九七年の刊行で、河野が時間と体力を強く意識して生きた、四十代の半ばから後半の作品を収録。結句の「見えゐしが消ゆ」と、大振子が消えたことを加えているのは、生きてゆく上での茫漠とした不安感がふっきれたのだろう。

中川佐和子

2021年11月の歌

愛國の何か知らねど
霜月のきりぎりすわれに掌(て)を合せをり

恂{邦雄 『獻身』

11月、老いたキリギリスが私に向かって前肢を合わせ、拝む格好をしている。この合掌のしぐさには、見覚えがないだろうか。これは、かつて神社や宮城で戦勝を祈願した日本人の姿ではなかったか。この歌の作られたのは、第二次大戦が終わってから半世紀近く経った頃。秋深きこの日、何の因果か、前衛歌人のこの私が祈りを捧げられる立場になっている。かつて軍に徴用され、「愛國」をたたき込まれた自分だが、本当のところ、「愛國」の何であるかは知るところがないというのに。主客が逆転し、拝まれてしまった戸惑いの中に、あやうい平成日本の姿を浮かび上がらせた。独特の社会詠といえよう。

坂井修一

2021年10月の歌

ポストモダンといふは木犀の香りにて
何かさはやかに忘れしむるを

馬場あき子 『阿古父』

ポストモダンは近代からの脱却をめざした思想運動。日本では1980年代に盛り上がりを見せた。そんなポストモダンに、馬場あき子は(金木犀ではなく)木犀の香りを嗅ぐという。世はバブルの時代、消費文化のまっただ中にあった。爽やかな芳香に包まれるように、人々は近現代、特に戦中・戦後の苦悩や葛藤を忘れて、今ここにある豊かさを楽しんでいる。馬場はそんな世相に半ば同情しつつも強い留保を示す。自分の半生の結論はここにはないのだ。骨太の問い返しの中で、彫り深い痛みの記憶を取り返しつつ、静かに世相を見守るしかない。そんな思いをこめた一首。

坂井修一

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